2015年12月20日
クリスマス礼拝
聖書=マタイ福音書2章1-12節
まことの光に導かれ
新しく生まれた王を求めてエルサレムの町に訪問者が到着した。東方から来た占星術の学者たちです。「東の方」はアッシリア、バビロン、ペルシャの地方を指す。この地方はかつてユダヤの民がアッシリア捕囚、バビロン捕囚で散らされていた。旧約の知識とユダヤに対する関心のあるところです。その地方に住んでいた占星術の学者は当然、異邦人です。彼らは長い旅をしてエルサレムにあるヘロデの王宮を訪ね「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた。「王は、どこに生まれたのか」という問いは、衝撃的なものでした。むしろ禁句であった。
当時、ユダヤはローマ帝国が治めていた。そのローマ皇帝によって認知されていたのがヘロデ大王です。彼は皇帝の巨大な軍事力を背景にユダヤに大きな権力と支配を確立していた。重税、強制労働、容赦のない粛正によってヘロデの支配は30年以上続いた。晩年には猜疑心から王位を狙うと思う者は家族であっても情け容赦なく殺した。こうした中で「ユダヤ人の王として生まれた方はどこか」と尋ねることは危険なことでした。この学者たちは最も避けるべき人物に、最も避けるべき質問をしてしまった。
マタイ福音書はこの危険な出来事をしっかり記している。イエスは多くの人の殺意の中に生まれ、歓迎されなかった。激しい敵意をもって迎えられた。王となるべき者が生まれたことを知ったヘロデは、この後推定される地域の幼子虐殺を計画している。それだけでなく、新しい王・メシアの誕生を知らされたイスラエルの指導者たち、祭司長、律法学者も心を動かさない。神の民と言われ神から一番近いところに居た筈の人たちが、救いから一番遠い人たちになってしまった。今日の私たちも世の力と繁栄に心を奪われているならば、やはり同じように殺意か無関心をもってイエスを迎えることになるのではないだろうか。
「占星術の学者」と訳された言葉は「マギ-」です。マジックという英語と同類の言葉で、魔術師、占星術師です。東方では学者でしょうが、ユダヤでは偶像礼拝者に過ぎない。ユダヤ人から見たら、マギ-・占星術師は特別な存在です。先ず、異邦人は神に救われるはずはない。その中でも星占いなどに凝っているのは絶対救われない連中だと考えられていた。ところがマタイ福音書は、その絶対救われないと思われていた異邦人の偶像礼拝者が、実は最初にイエスにお目にかかり、礼拝し、贈り物をしたのだと語っている。福音書には異邦人や軽蔑されてきた人たちとイエスとの出会いが多く記されている。カナンの女、異邦人の百卒長。さらに徴税人、遊女、罪人と言われる人たち。貧しく、飢え、疲れ、神の民の交わりから弾き出されていた人たちです。主イエスは救われがたいと思われる人のところに来て、このような人たちを救い上げて下さいました。その最初に、この異邦人の占星術師が置かれているのです。
ヘロデの王宮を出ると、再び星に導かれます。彼らは導きの星に導かれて、「家に入って、母マリヤと共におられる幼児」見た。そして「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。クリスマスは喜びの時です。救い主キリストに出会った喜びです。この東方の占星術師たちも長い間、闇の世界を歩いてきました。占星術とはこの闇の世界の業です。闇の中での光りを求める手探りの業です。しかし今、神の導き、星の導きによって長い間、捜し求めていた人生のまことの主、まことの王にお目にかかった。光りの中に導びき入れられたと言っていい。救い主である幼子に出会ったのです。この時に、彼らは何をしたのか。
「ひれ伏して幼子を拝み」。クリスマスとは、キリストのミサ、キリスト礼拝です。彼らは自分たちの風習の最高の姿勢で、イエスを王として礼拝したのです。そして、宝の箱を開けて贈り物をした。黄金、乳香、没薬です。これらは古代においても、今日においてもたいへん貴重なもの、高価なものです。しかし実は、単に高価な財宝を献げたというだけのことではない。私が最近読んだ書物の中に、こういうことが書かれていた。この占星術の学者とは同時に古代の医者でもあった。これらの黄金、乳香、没薬は、彼らの占いの道具であり、いやしの薬でもあったと。外に出る時、いつも肌身離さずに持っていく鞄の中には彼らの商売道具が入っている。黄金、乳香、没薬は必要だと言って直ぐ手に入るものではない。いつも鞄に入れておいて、出掛けていって商売する。彼らの仕事は占い、おまじない、病気のいやしなどです。その時に、これらのものを出して使う。
これらの商売道具を今、彼らは幼子イエスに出会って献げた。主イエスにお目にかかるという喜びの中に置かれた時、占星術の学者たちは自分たちの生きる手だてを捨てた。商売道具を献げてしまった。今まで、「先生、運勢を見て下さい。病気をいやして下さい」と頼まれると、それらを出しておまじないをしてやっていた。病気のいやしをしていた。しかし、もう魔術はしない。食べていけなくなるかもしれない。けれどもレプトン銅貨2枚を捧げたやもめの女と同じように、彼らは生涯を主に捧げたのです。キリストを主とし神として信じる信仰に一切を委ねる道を選んだのです。
救い主に出会って、この人たちはすべてを献げて新しい生き方を始めた。私たちもクリスマスの礼拝に集まってきました。ここに出席した理由はいろいろで、おつきあいで来たという方もあるかもしれない。しかし、このように導かれたのです。理由はどうあれ、ここに導かれた。そして、この時に、神ご自身が私たちに近寄って下さったのです。神から本当に遠いと思える歩みをしてきたかもしれません。しかし、ここから新しい生活が始まるのです。マタイ福音書が記すのは、本当に神から遠かった人たちの救いの出来事です。神から遠い生活をしていた者のところに、神ご自身が導きを与えて、あなたの神になると言って下さるのです。この喜びをかみしめるところで、神に信頼して生きる新しい生き方が始まっていくのです。