2016年1月17日礼拝説教 「 山に逃げなさい…逃亡の勧め 」

                    2016年1月17日

聖書=ルカ福音書21章20-24節

山に逃げなさい…逃亡の勧め

 

 「逃亡の勧め」です。大きな迫害が起こった時には逃亡しなさいと申し上げたい。世界史をひもどくと分かりますが、プロテスタント教会の歴史は逃亡の歴史でした。宗教改革者カルヴァンも逃亡者、亡命者です。カルヴァンはフランス人です。宗教改革がドイツからフランスに及んできた。ニコラス・コップという人がパリ大学の学長に選出され、その学長就任演説がプロテスタント的だと言われた。コップの演説の下書きをしたのが若き日のカルヴァンでした。この時期、パリ大学を支配していたのはカトリックでした。コップとカルヴァンは命からがらパリを逃げ出し、その逃亡の途中で、カルヴァンはジュネーブに立ち寄り、ジュネーブの改革者になった。宗教改革運動は逃亡者たちによって各地に伝えられたのです。

 

 アメリカ合衆国はメイフラワー号でお分かりのように、英国の国教会体制から逃げ出した人たち、旧大陸から逃げ出した人たちで造った国です。日本人のセンスでは、逃亡とか亡命というとマイナスイメージがあるようです。しかし、世界の大きな変革は逃亡や亡命から始まっているのです。

 

 迫害が起こった時、初代教会の人たちはどのように対処したかを聖書からしっかり学んでおくことです。使徒言行録8章1-4節に最初の迫害が記されています。サウロによる迫害が起こった時、信徒の多くは各地に散り逃げ出した。逃げた人たちが行った先がシリアのアンティオケアで、そこに大きな教会が出来た。そこを拠点として、迫害の張本人であった後のパウロによる異邦人伝道が始まっていくのです。迫害を逃れていった人たちによって福音の伝道は広げられ、拡大し、新しい拠点を築いたのです。これが新約の教会の歴史であったことを見失ってはならない。

 

 ここに記されているのは、主イエスによるエルサレム神殿の崩壊の予告です。この時、エルサレム神殿はヘロデ大王による大改修工事が終わったばかりで黄金に輝いており、人々はうっとりと見とれていた。主イエスは21章6節で「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と語られ、そして今、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」と言われます。主イエスはまもなくエルサレムが軍隊に包囲され、滅亡する時が来ると言われた。

 

 当時のユダヤ人にはエルサレム不滅信仰がありました。エルサレムは神の都で神が住むところで、どんなことがあっても不滅だという信仰です。バビロン捕囚を経験していたにもかかわらず、ユダヤの人々はエルサレムは不滅であると思い込んでいた。「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」の言葉の通りです。戦前の多くの日本人が「日本は神の国だ。滅びることはない。最後は神風が吹く」と信じていたのと似たようなものです。

 

  その中で、主イエスははっきりと主イエスの弟子たちだけでなく、ユダヤにいる多くの人の採るべき道を教えられたのです。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」と。主イエスは「エルサレムを守って戦え」などとは言われません。「逃げろ」と言われた。

 

 その理由は、「書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」。「書かれていること」とは、旧約聖書に書かれていることです。ユダヤ人が神の民と言われながら神に反逆した歴史が書かれている。旧約の歴史は神への反逆の歴史です。それに対する神の報復、裁きの時です。その最大の反逆はこれから起こる神の御子であるイエスの抹殺の出来事です。この背信を神ご自身が裁かれる時だと言われた。神が定めている裁きの時だから、エルサレムを守ろうとして戦うことは、むしろ神の御心に従うことではない。逃げろ、立ち退け、と言われた。エルサレムに未練を残すな。神がロトに対して罪の町ソドムから山に逃れよと命じたのと同じです。

 

 40年後、紀元70年8月、ティトス将軍に率いられたローマ軍によってエルサレムの街と神殿は徹底的に破壊された。数十万人という死者を出し、長い戦争の中で食糧も尽き悲惨な事態も起こった。生き残った人は奴隷としてローマに連行された。しかし、周囲のユダヤ人が熱心党に指導されて反ローマでまとまり、徹底抗戦が決まる中で、キリストの弟子たちは、今は神がエルサレムを裁かれる時であると判断し、主イエスの言葉を思い起こし、時の徴を冷静に判断したのです。そして、ヨルダンのペラへ逃れ、キリスト者の新しい共同体を築いたのです。キリスト者はこの世の流れに乗っかって生きるのではなく、主の御言葉に従って生きるのです。

 

 さらに、主イエスは弟子たちに言われました。「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。「異邦人の時代」が来ると言われました。エルサレム神殿の時代は終わったのです。主イエスが神の小羊として罪人の贖いのために十字架を担われたことによって神殿の役割が完了したのです。だから破壊されたと言ってもいい。終末とは、1つの時代の終わりでもあるのです。

 

 そして異邦人の時代が来ます。福音が世界に伝えられる新しい時代です。今日、私たちはこの新しい時代の中に置かれています。紀元70年のエルサレム神殿の破壊によって、キリスト教はユダヤ教から別れました。それまではユダヤ人であるキリスト者の多くは、土曜日にユダヤ教の神殿で礼拝を献げ、日曜日にはパンを裂くというキリスト教礼拝を、両方とも守っていた。しかし、神殿が破壊されてからは、ユダヤ人であってもキリスト者はユダヤ教と訣別してキリスト教信仰一筋に歩みだしたのです。まさに神によって強制的に世界に散らされ、世界に福音が伝えられて行ったわけです。「逃げなさい。立ち退きなさい」と言われた主イエスのお言葉を、私たちも心の中に刻んでおくことも必要です。歴史の中での神の導きをしっかりと受け止めることが、神の摂理を信じる信仰なのです。