2016年1月31日
聖書=ルカ福音書21章34-38節
目を覚まして祈れ
終わりの時は、いつ起こるか分からないことですが、主イエスは「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われた。大地震が起こったから、戦争が起こったからと言って、この時代は直ぐには滅びない。惑わされるな、おびえるな、と主は言われた。この時代はある安定性があると言っていい。直ぐには滅びない。
では、なぜ、主イエスは終末について、このように丁寧に語られたのか。キリスト者の生活が整えられ、終末の自覚を持って生きるためです。弟子たちの生き方、生きる姿勢をしっかりと定めるためです。どこを目差して生きるのか。何を目当てにして生きるのか。どのような姿勢で生きるのか。この信仰者としての姿勢を明確に定めるためなのです。死が避けられないように、この世界にも終わりの時がある。個人的な死の時であれ、世の終わりであれ、私たちは必ず「人の子」と言われる主イエス・キリストの前に立つのです。ここで大切なことは終わりの時が「人の子の前に立つ時」とされていることです。終末は単なる破壊や滅亡ではなく、キリストにお会いする時です。信仰者として主の前に立つ、キリストにお会いするためには、どのような心備えをしていなければならないかを教られたのです。
主イエスは、まず「その日」、終わりの日は、不意に来ると言われました。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」と。主イエスはあるところで、主の日は盗人のように来る、と言われました。ここでも、突然に襲いかかるように来ると言われた。死も突然です。私たちは明日をも分からぬ身なのです。世の終わりも突然です。この世界も明日のことは分からない世界です。終わりがいつかを知っているのは神だけです。誰も予測できません。私たちが今、終わりの時のことを学ぶ理由は、終わりの日がいつ来てもよいように備えするためです。
けれども、主イエスは終わりの時に直面する人間の弱さをよく知って、「心が鈍くならないように注意しなさい」と言われた。「心が鈍くなる」と訳された言葉は、重荷や負担を負わせるという意味ですが、ある英語では「オーバーチャージ」と訳している。心に負荷がかかりすぎると鈍くなるのです。主イエスは心を鈍くする原因を指摘しています。1つは「放縦や深酒」です。「放縦」は「暴飲暴食」と訳すべき言葉です。「深酒」と合わせて、酔っぱらって理性を失ってしまうような状況を示しています。深酒、大酒は理性と分別を失わせる。ここで主イエスはお酒にこと寄せて、罪についての酩酊状態を語っているのです。罪に対して無感覚になることです。罪は人を酔わせ、倫理感を失わせます。このくらいなら、私の罪などまだ序の口と思っているうちに感覚が麻痺し心が鈍くなってしまう。
2つが「生活の煩い」です。生活の計画を立てることと生活の煩いは違います。生活の煩いは富を得て生活が豊かになる中で、神を忘れ、神よりもこの世のことを優先してしまう。そのような生活をする時、待っているのは滅び以外ない。神は昔、ノアに箱船を造ることをお命じになった。来たる洪水から多くの人を救うためでした。しかし、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。神など眼中になく、この世のことを優先し、この世のことだけに生きた。これが「生活の煩い」です。
主イエスは、このような弱さを持つ私たちに対して「これらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と警告された。これが終末に備えして生きるための最も大切な処方箋です。私たちは、再臨の主の前で、自分の正しさ、聖さ、立派さを主張して救いを獲得することが出来るような者ではありません。「人の子の前に立つ」とは、キリストの十字架による罪の赦しをいただいた者として立つことです。罪を赦された者、贖われた者としてキリストの義の衣を身にまとって立つのです。人の子の前に、私たちはイエスを救い主として信じる者として立つ。そのためには、今から、この時から、私たちを救いの恵みの中に招いてくださるお方の前に立つことが求められている。人の子の前に立つ終末は、今ここから始まっているのです。
そのために、祈ることが求められている。「目を覚まして祈る」とは、何もしないで祈り続けろと言うのではありません。祈るとは、神との交わりを持ち続けること、神に心を向け続けることです。主イエスは目覚めて祈ることが出来るようにと恵みの手段を与えてくださいました。多くの方から「どうしたら、信仰をきちんと保ち続けていけますか」と尋ねられます。「聖書を読み続けること。祈り続けること。礼拝を守り続けること」、これ以外ありませんとお応えしています。
「聖書を読み続けること。祈り続けること。礼拝を守り続けること」が、神との交わりを持ち続けていくために神が与えてくださったものです。私たちが霊的に眠り込まないためです。しっかり聖書を読み、聖書の説き明かしを聞き、共に祈り、聖餐にあずかり、信徒の交わりの中で共に励まし合います。そのような中で、私たちは罪が赦された者として、再び来られる主に目を注いで生きるように整えられるのです。「祈り」は、神の御前に立つことです。私たちは祈りの度に、終末において主の御前に立つその日を先取りしていると言っていい。祈ることにおいて、自分がやがて再臨の主の前に立つ日が来ることを心に刻んでいるのです。
この祈りの中心にあるのが主の日の礼拝です。礼拝の中で、やがて神の前に立つ者としての備えがなされていく。聖餐式の時に読まれるみ言葉の中に、「主が来られる時に至るまで」という言葉があります。礼拝と教会のすべての集会は、心が鈍くなり、眠りこけてしまう私たちの心を目覚めさせ、主が再び来られる時に備えて信仰の身繕いさせるためのものです。「主よ、来たりたまえ」と、忠実に祈りとしての礼拝を守ってまいりたい。