2016年2月21日
聖書=ルカ福音書22章14-23節
主の晩餐の制定
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」と記されている。主イエスは言われます。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と。「切に願っていた」とは強い表現です。この過越をするために、わたしはこの世に来たのだ、ということです。
過越は家族単位で守られます。男も女も、大人も子どもも、しもべたちも参加します。家長を囲んで旅支度の姿で食卓を囲みます。家長によって祝福の祈りが捧げられ、ブドウ酒が大きな杯によって回し飲みされます。その後、子たちを代表して長男が「なぜ、このような祭りを行うのか」と意味を問います。家長は過越の祭りの物語を話します。ハレルと言われる詩編113編から118編を歌います。再びブドウ酒を回し飲みし、過越の小羊の肉を食べ、種入れぬパンと苦菜を食べます。三度ブドウ酒の杯が回されます。これが過越の祭りです。主イエスも12人弟子に囲まれ、この過越の祭りをなさいました。過越が意味することは、イスラエルがエジプトの圧政から解放された救済の出来事を記念することでした。出エジプトの時から途絶えることなく、過越の祭りをし記念してきました。
主イエスはこの過越を祝った後に言われました。16節「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」。この言葉は分かりづらい。何を意味しているのか。今、目の前にしている過越の食事を「わたしはしない」ということなのか。そんなことはない。「切に願ってきた」と言っている。実は写本の問題がある。口語訳「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。主イエスはもうこの後、過越の食事をしないと言われた。過越の終わりを告げた言葉です。
過越祭が意味するのは、小羊が屠られ、その血が流されて罪が贖われ解放されることです。洗礼者ヨハネは、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した。主イエスは、神が用意した贖いのための過越の小羊です。主イエスは過越の小羊としてその身を捧げられた。それによって旧約の過越が意味していた神の民の救済、解放が実現した。その血をもって罪に対する神の怒りが過越すという祭りの意味を完成して過越の終わりとなられた。新約のキリスト教会はもはや小羊を屠る過越は行いません。キリストがただ1度、神の小羊として過越を完成してくださったからです。
主イエスは過越の終わりを宣言された後、改めて「イエスは杯を取り、感謝の祈りを唱えて言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」。
主イエスによる新しい主の晩餐の制定です。旧約の過越の食事とは明確に区別されています。過越の食事を済ませた後、改めて「主の晩餐」を制定された。過越はキリストの十字架において完成されて終わり、主の晩餐は改めてキリストの十字架と復活を記念するものとして、イエスご自身によって制定されたのです。連続性と非連続性がある。主の晩餐は、出エジプトの記念ではなく、キリストの十字架の出来事の記念です。過越祭を下敷きにしているが、主の晩餐は新しい出エジプトとしてのキリストの十字架による罪の贖いの出来事の記念、キリストの祝祭へと変わったのです。
主イエスは、先ず「感謝の祈り」を捧げられました。主の晩餐を特色づけるのは「感謝の祈り」です。この感謝の祈りは、食事の感謝と言うよりも、キリストを与えてくださった神の恵みに対しての感謝です。「キリストの十字架の恵みへの感謝」です。神が私たちを救っていてくださることへの感謝です。これこそ主の晩餐を特色づけるものです。
大事なことは「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われたことです。パンとブドウ酒を、ご自分が裂く体、ご自分が流す血と言っておられます。肉と血は身体の一部分ではなく全部ということです。主イエスは「わたしの全部をあなたがたに与えるのだ」と言われているのです。主はさらに「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われた。これは主の晩餐を制定して、主イエスはこの地を去られるということです。主イエスにとって、まさに最後の晩餐です。
主イエスは、マタイ福音書20章28節で「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われた。多くの人のために命を与えるために来た。「命を与える」ことを、肉が裂かれ、血が流される十字架の死において明らかにされたのです。このことを覚えて、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのです。私たちは聖餐式においてパンを食べ杯を飲みます。それはキリストの命を受けることです。
主イエスは「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われた。古い契約が新しくされたのです。「わたしは彼らの神となる」という契約がキリストの血によって新しくされた。キリストの血が注がれ、その血を受ける者が「神の民となる」のです。これが新しい契約です。アブラハムの肉の子孫にだけ救いがあるのではない。キリストの血が流され、その血によって罪の赦しを受ける者が新しい神の民です。主の晩餐にあずかり、キリストの肉と血にあずかるところで、「あなたはわたしの民である」と、新しい恵みの契約の宣言を聞くのです。