2016年2月28日礼拝説教 「仕える者となりなさい 」

                    2016年2月28日

 

聖書=ルカ福音書22章24-30節

仕える者となりなさい

 

 最後の晩餐が終わった直後に、同じテーブル、同じ席上で、弟子たちの中で議論が起こった。情けない悲しい議論です。「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」。極めてこの世的な議論でした。マタイやマルコ福音書では他の場所でもこのような議論が起こったことを記している。今までにも似たような議論が起こった。そして最後の晩餐の席でも起きてしまった。これが弟子たちの本当の姿、偽らざる姿です。「聖なる公同の教会」とは、決して聖人の集まりではない。世俗的な人間、罪人の集まりに過ぎない。私たちはこの悲しいこの事実を冷静に受け止めていかねばならないのです。

 

 「まだ分からないのか」、「何度言ったら分かるんだ」と、私だったら頭から湯気を出して怒鳴りつけたくなる光景です。けれども、主イエスは冷静に丁寧に弟子の在り方、教会のリーダーの在り方を教えておられます。怒ってもいません。落胆してもいない。こんなに情けない世俗的な人間、だれがいちばん偉いかという議論を、最後の晩餐の席でもするような人たちによって教会は担われていく。そのために、主イエスは噛んで含めるように教会のリーダーシップについて教えているのです。

 

 主イエスは、先ず異邦人の支配の原理を引き合いに出します。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」。「異邦人の支配」とは、ローマ皇帝やヘロデ大王のような人たちの支配を指しています。「権力を振るう」という支配の道です。政治的な権力、物理的軍事力による支配、経済力による支配もある。いずれも人を力で押さえつける支配です。主イエスは、このような世の権力者たちとは全く違う教会のリーダーシップというものを示されたのです。

 

 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われた。このお言葉の中で注意することは、教会にも「上に立つ人」がいることです。時折、教会は平等ではないかと言う方がいる。確かに平等です。キリストに贖われた人は皆、兄弟姉妹です。キリストに結ばれて皆、キリストに直接に祈ることができる。万人祭司がプロテスタント教会の大切な原理です。しかし、教会が一つの群れとして秩序を持った歩みをするため「上に立つ人」が定められている。主イエスも12人を使徒として選び出した。使徒パウロは各地を伝道し、群れができると、その群れの中から「長老たち」を立て、彼らに群れを委せて、次の土地に出掛けて行きました。信徒は皆、兄弟姉妹で平等ですが、その群れを指導していくためには「上に立つ人」が必要なのです。教会は烏合の衆ではなく、秩序を持った共同体なのです。

 

 牧師、長老、執事は、今日の教会のリーダーたち、上に立つ人と言っていい。問題は、「上に立つ人」の在り方です。ヘロデ大王のように権力によって押さえつけるのではない。全く違う原理を示された。主イエスは「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか」と言われた。「仕える者のようになれ」、これが教会における上に立つ人の在り方なのです。

 

 主イエスは、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言われた。主イエスは神の御子です。そのお方がへりくだってこの地に来られ、私たちに仕えてくださった。ヨハネ福音書には「洗足」の出来事が記されている。最後の晩餐が始まる前に一人ひとりの弟子たちの足を洗い、しもべのようになってくださった姿が記されている。そして、十字架においてご自身の血を流して罪人の罪の支払いをしてくださいました。キリストの生涯の全体がしもべのように仕える者であった。その死において罪人のために生命を与え尽くしてくださいました。

 

 命を与えるまでに仕えてくださった。そのゆえに、主は教会の頭とされたのです。これが教会における上に立つ人の在り方なのです。主イエスは決して権力をもってその群れに君臨することはしませんでした。徹底的に仕えること、生命まで差し出すことによって教会の頭となってくださった。それによって教会においては仕えるということが群れを治めていく原理となったのです。教会では聖餐式の時に、長老に配餐の奉仕をお願いしています。これは長老は偉い人だからということではない。この配餐の奉仕に教会の役員の在り方が示されている。長老や執事は給仕する者、仕え人であるという教会役員の本質が、ここにはっきりと示されているのです。

 

  この後、ペトロの挫折物語が記されている。ペトロは12弟子の代表格の人物、最初期からの弟子、使徒のリストの最初の人物、弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰告白をした。世間的な物差しで言えば、主イエスなき後、胸を張って弟子たちを指導していくことのできた人物です。ところが実際にはペトロにはそれが出来なかった。彼は挫かれました。「主よ、あなたのためなら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったペトロは、その舌の根も渇かないうちに、キリストを「知らない」と3度否定してしまった。弟子失格です。

 

 ところが、主イエスはこの挫折したペトロを立てて、再び教会を担う器とされた。後に、彼は教会の柱と重んじられた。それはペトロが自分の力、自分の能力によって群れを治めたからではない。信仰の挫折を経験し、弟子として失格者となった。能力で胸を張って群れを治めることは出来ない。彼はこの後、仕えることによって教会を担っていった。俺が一番だなどという席順争いは、もうペトロにも出来なかった。みんなに仕える以外に道がなかったのです。そのために、主イエスはあえてサタンのふるいを用いてペトロを挫かれた。教会は、挫かれ振るわれた者たちが赦しの恵みの中で生かされるところです。挫かれた体験を持つ人たちが、赦されて謙虚な者とされ、仕え合うことによって担われていくのが教会なのです。