2016年4月24日
聖書=ルカ福音書22章63-71節
イエスは神の子
捕らえられた主イエスは、時の大祭司カヤパの屋敷に連行されました。「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった」。彼らは「最高法院」と呼ばれるサンヘドリン議会の議員たちです。祭司24人、律法学者22人、長老24人の70人によって構成され、大祭司が議長を務めました。この議会は旧約律法と伝統の掟によってユダヤの民の日常生活、宗教生活を監督しました。自治が許されていたのです。ただし、死刑の宣告と処刑の権能はローマ総督が握っていました。
主イエスの最初の公的なユダヤ教側の裁判です。彼らは最初からイエスを処刑することを暗黙の了解としていた。イエスを処刑するための理由捜しのような裁判です。結論が決まっていて、どのようにしてその結論に導いていくかというだけのことです。主イエスをローマ総督に訴えて処刑するための証拠を捜します。多くの人がイエスの有罪と思われることを語りましたが一致したものは出てきません。当時の証拠は証人ですが一人の証言だけでは決定できない。二人以上の人の証言が合わなければならない。なかなか出てこない。ルカはこの議論については沈黙しています。
総督に訴える罪に定める証拠が見付からない。苛立った大祭司は直接、イエスを問い詰めた。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と。これはイエスを反逆罪で訴える口実を与えてしまう危険な質問です。もし、イエスが自分をメシアと肯定すれば、たちまち彼らはイエスをローマ帝国への反逆罪で総督に訴える。メシアと自称することはローマへの反逆者を意味していました。イエスの答いかんによって有罪が決定してしまう。議員たちはこの質問の重大性に気付いてシーンと静まった。その中で、今まで沈黙してきた主イエスが口を開かれた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」と言われた。
この言葉は、主イエスご自身がなさったご自分についての明確な証し、自己証言です。主イエスがはっきり自分は「神の右に座る」神の子なのだと語られたのです。2つの旧約聖書を引用したお言葉です。1つはダニエル書7章13節からの引用です。「人の子」は人間の子というよりも「神に等しい存在」という意味を持つ言葉です。「日の老いたる者」とは、天にいます永遠の神のことです。人の子と呼ばれるお方は、永遠の神と共に永遠の主権を持つ方として描かれています。それがダニエル書の「人の子」の姿です。主イエスはご自分を「人の子」と言われ、神と共にある永遠者、神から支配権を受けた者、終末的なメシアであるという表明です。
「全能の神の右に座る」は詩篇110編1節の引用です。神ご自身が、ダビデが主と呼ぶお方に対して「わたしの右の座に就くがよい」と言われた。神の右とは、神と等しい方のいますところ、神から権能を委ねられた代理者の位置です。主イエスはダニエル書と詩編の言葉を1つにして引用し、人の子は全能の神の右に座る存在だと言われた。「今から後」と付け加えます。捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられる。その後ということです。三日目に復活して天に挙げられる。まことに惨めな十字架のイエスが、今から後、直ぐに全能の神の右に座る人の子なのだと言われた。あなたたちは信じられないだろうが、「わたしがその人の子だ」と言われた。政治運動家としてのメシアではない。革命家でもない。しかし、自分は本来、神と等しい者、まことの神の子であると決定的に語られたのです。
最高法院・サンヘドリンの議員は旧約聖書に精通した人たちです。主イエスの言われた言葉の意味をしっかり悟ります。そこで議員たち皆が「では、お前は神の子か」と反応した。すると、主イエスは答えられます。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と。これは「あなたたちがそう言っているとおりだ」という意味の言葉です。「あなたがたの言うとおりだ」と応えたのです。主イエスはご自分が神と等しい者、神の子であることを、ここではっきり肯定されたのです。
裁判・訴訟として見た場合、決定的にまずいことを言った。主イエスは自分で自分を処刑へと定めたようなものです。けれど、これこそ主イエスが譲ることの出来ない点でした。大祭司はこのイエスの言葉を聞くと、もう証拠はいらない、これだけ多くの人の前で公然と本人の口から語られたのだと言います。これは神を汚す言葉です。自分を神と等しい者とする最も大きな罪で死に当たると宣告した。ユダヤ人にとり人間が神であるとか、神と等しいなどと言うことはあってはならない。それは「神を汚す」ことで、これ以上恐るべき罪はありません。徹底して避けるべきことです。しかし、主イエスは「自分は神と等しい者である」と貫かれた。
ルカ福音書は、ペトロの信仰告白の失敗と並べて、主イエスご自身がなさった身の証しをきっちりと記します。ペトロは我が身可愛さ、人の目を恐れてキリストの弟子であることの告白に失敗してしまった。主イエスは裁判を有利にしようとか、危険を回避しようとかはなさらずに、真実を貫かれた。自分は、神と等しい人の子で、地上での使命を果たし終えるならば、神の右に座すのだ、と簡潔に明確に主張され、救い主としての道を貫かれたのです。主イエスは捕らえられ、多くの人に罵られながらも、ご自分が神の子であることを明らかに語られました。私たちもキリストを信じてキリストに結ばれた者として、キリスト者であることをどんな時にも明らかにしていくことが求められているのです。キリストをあざける人が多くなる時、不信仰が蔓延する時、神はいないのではないか、キリストは無力なのではないかと思い、信仰を揺るがせにしがちです。しかし、主イエスは、どんなに惨めな状態の時にもご自分が神の子であることを主張された。私たちは、この主イエスに結ばれて生きるのです。私たちもキリストのものであることを命をかけて証ししていくことが求められているのです。