2016年5月1日
聖書=ルカ福音書23章1-12節
無責任の時代
今日、責任ということが分からなくなっているのではないかと思う。国民年金や厚生年金のお金で何十億の豪華な施設が作られ、ほとんど使われないまま数万円で売却された。誰も責任をとらなかった。安全・安心な夢のエネルギーということで原発があちこちに造られた。フクシマ原発の事故があったが、だれか責任を取ったという話は聞かない。政治や政策の失敗の責任もうやむやにされている。国の負債が膨大な額になっているが、嫌なことは先送りしている。そんな風土の中で私たちは生活している。この聖書個所も、このような人間の無責任さが浮き彫りにされています。群衆の付和雷同、いい加減さ、指導者たちの無責任さが余すところなく記されている。この姿は、今日の日本の姿と似ているのではないか。
ここには主イエスを取り巻く人々の姿、人間模様が描かれている。「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」。「全会衆」とは、どういう人たちか。単なる群衆ではない。13節にピラトが法廷を再開するために「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集め」と記されている。これが「全会衆」の内容です。サンヘドリンの議員である長老、祭司長たち。それだけでなく一般民衆も加わっています。この「民衆」は少し前までイエスのエルサレム入城を歓迎し、イエスが神殿の境内で教えると周りに群がっており、祭司長や律法学者たちが恐れていたのです。
その人たちが今、サンヘドリンの議員と一緒に、イエスをピラトのところに連れて行き、一緒に訴えている。コロコロと変わる民衆のいい加減さが表されている。民衆の無責任、恐ろしさが表されている。主イエスが神殿で律法学者や祭司長たちを相手にしている時には、イエスの話に同調し拍手を送る。しかし、イエスが逮捕されると民衆は一変する。勝ち馬に乗る。時の権力に迎合しお先棒を担ぐ。最高法院での結論を見て、民衆は権力の側に寝返り、指導者たちの言葉を代弁して、イエスを訴え始めた。
見ておかねばならないことは訴因の変更です。サンヘドリン議会での有罪は「イエスは自分を神の子と語った。神と等しい者とした」神聖冒涜罪です。ところがピラトへの訴えはまったく違った。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」、ローマ帝国への反逆者だということです。ピラトの法廷は世俗のローマ法の世界です。神聖冒涜罪では「おまえたちの宗教の問題だ」と言われ門前払いになる。そのためローマへの反逆者という訴えに変えてしまった。議員たちが言い出したのか、民衆が言い出したのか、分からない。はっきり分からないうちに訴因変更されてしまった。うやむやの極地です。
第2はポンテオ・ピラトの無責任さです。ピラトは法廷を開いてイエスに尋問する。「お前がユダヤ人の王なのか」と。すると主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えた。口語訳では「イエスは『その通りである』とお答えになった」と訳した。主イエスはご自分が「ユダヤ人の王」であることをはっきり肯定された。それは「王」の意味することが違うからです。神の国の主権者である王ということです。ピラトには、霊的な意味については分からなかった。しかし、この男が言う「王である」ことの意味が違うことは分かった。訴えが妬みからであることも分かっていた。捕らえられ、侮辱され、罵られても、何一つ反抗しない無力な男が「王である」などあり得ない。ピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と語った。これで結論は出ている。イエスは無罪です。しかし、無罪の判決を宣言しません。それは取り巻く群衆を恐れたからです。
イエスがガリラヤ出身であることが分かると、その領主が今、都合よくエルサレムに来ている。そこでガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのところに送ってしまった。責任の回避です。そっちでうまくやってくれと、たらい回しです。ピラトは保身を第一とし責任回避してしまった。
さらに無責任なのは領主ヘロデ・アンティパスです。このヘロデは有名なヘロデ大王の息子で、この時、ガリラヤ地方の領主でした。送られてきた「イエスを見ると、非常に喜んだ」。前からイエスのうわさを聞いて、会ってみたいと思っていた。イエスという男がガリラヤで伝道し、多くの人をいやし、奇跡を行ったことを聞いていた。そこでイエスに興味を持ち、「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいた」。ヘロデにとってイエスは好奇心の対象でした。ところが、ヘロデが尋ねても求めても「イエスは何もお答えにならなかった」。ピラトには一言ですが大事なことをお答えになった。ヘロデにはまったくお答えになりません。興味本位の求めにはお答えにならなかった。ヘロデは怒って兵士たちと一緒に「イエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」。
今、読んできたところに記されていることは、大勢の人が主イエスと出会いながらも、だれ一人、主イエスと人格的に向き合った人がいなかったということです。無責任な人々の群像が描かれている。主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ福音書7:7-8)と、約束されました。しかし、真剣に主イエスに求めることのない無責任な態度や興味本位の求めに対しては、何もお答えになりません。
主イエス・キリストの存在は、私たち人間の姿勢と思いが露わに映しだされる鏡と言っていい。主イエスに出会うところで、私たちの本当の姿が現れるのです。主イエスを本当に分かるためには、人格的な求道の姿勢が求められます。無責任な態度、興味本位では、キリストは分かりません。私たちは真剣にキリストを求めてまいりたい。心の底から主イエスに「主よ、お助けください」と叫んでいきたい。そうしたら、だれであっても、主イエスは、その祈りと叫びに真剣に応えてくださるお方なのです。