2016年5月8日
聖書=ルカ福音書23章13-25節
大声の勝利
朝日新聞のコラムに「天声人語」がある。ラテン語の「民衆の声は神の声」という諺から、または中国古典の「天に声あり、人をして語らしめる」という言葉から採ったとも言われている。民衆の声の代弁ということでしょう。ところが天の声と言われる民衆の声が大失敗をすることが起こります。形の上の民主主義が最善ではないことも起こる。これは教会の中にも起こる。教会会議の中でも大きな声で執拗に自己主張する人がいて、困ったことに、そのような大きな声が議場を圧倒して支配し、落ち着いた冷静な審議が出来なくなってしまうようなことが起こる場合もあります。
礼拝の中で「使徒信条」を唱えます。その中に「ポンテオ・ピラトのもとに十字架に付けられ…」と記されている。ピラトはクリスチャンではありません。その名が、なぜ、整えられた使徒信条の中に登場するのか。しかも、イエスを十字架につけるという決定的な役割を担わされている。このピラトという人物を通して、人の生き方を見てまいりたい。
ピラトはローマの総督でした。ユダヤ人は自分たちだけでイエスを処刑する権能を持っていないため、総督ピラトのところに持ち込んできた。訴えの口実は「イエスはユダヤ人の王メシアと言っている」という政治犯としてです。ユダヤ人の最高法院では「彼は神を汚した」ということで有罪とした。総督の裁判では「神を汚した」と言っても、それはユダヤ人同志の宗教争いとしてしか扱われない。そこで総督が扱わざるを得ない罪名を付けて訴えた。総督ピラトは、みすぼらしいイエスの姿を見て「お前がユダヤ人の王なのか」とあきれながら尋ねた。すると、イエスは「その通りである」と明確に答えられた。しかし、ピラトの法廷では、ピラト自身がイエスの無罪であることを認めていることです。そこでピラトが最初にしたことは責任回避でした。イエスがガリラヤの人であることが分かると、ガリラヤの領主ヘロデの所に送って、そっちで勝手にしてくれとした。ところがヘロデも、イエスが何も言わない、何のしるしも奇跡も見せない、つまらないということで再びピラトの所に送り返してきた。
やはり総督としてのピラトが裁かねばならなくなった。ピラトのもとで行われた2回目の裁判です。ピラトはおよそ権威ある裁判官として立っていない。ピラトは、資格のある祭司長たち、議員たちだけでなく、民衆をも呼び集めています。これは民衆裁判になっている。ピラトは言います。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」。ピラトは、イエスに罪がないことを4回語っている。4節、14節、15節、22節です。イエスに好意的とも思えるほどです。しかし、ピラトは自分の良心に従って行動しようとはしません。ここにピラトの失敗がある。民衆を恐れたのです。
総督はユダヤ最大の祭りである過越の時に、犯罪人を一人赦してやるという習慣があった。恩赦の制度です。恩赦としてイエスを釈放しようと考えたのが「鞭で懲らしめて釈放しよう」という提案でした。それに気づいたのが祭司長たちです。せっかく捕らえたイエスを恩赦で釈放されたらたまったものではない。そこで群衆を扇動し、群衆は一斉に大きな声で「バラバを釈放しろ」、「イエスは十字架につけろ」と叫び出した。「その声はますます強くなった」。このままでは暴動になりそうな事態になった。
ここに総督の弱みがある。総督はローマ皇帝の官僚です。任地での暴動や失政は罷免の理由になります。失政で訴えられたり、暴動になったりすることを避けるために、ピラトは群衆を満足させる以外になかった。ここにあるのは自己保身です。今日の官僚も同じと言ってよい。「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」。ピラトは、自己の良心の声に従うべき最も大事な時に、良心の声ではなく、保身のために周囲の大きな叫び声に従ってしまったのです。群衆の大きな声が勝利してしまった。大きな声が必ずしも正義ではない。身勝手な理不尽な要求が勝利したのです。しかし、これはピラトの責任です。このため、ピラトは永久にイエスを十字架に決定づけた人物としての悪名を担わねばならなくなってしまったのです。
ルカ福音書がここで告げていることは、人間そのものの罪です。けれども、人間の罪が勝利したところに十字架が立つという不思議を見るのです。今日、主イエスは十字架に付けられるために生まれてきたと理解します。それで決して間違っているわけではありません。しかし、最初から筋書きが出来ていて筋書き通りに進んでいると勘違いしてしまいがちです。神のご計画という視点から見ると予定通りですが、なぜ、主イエスが殺されなければならなかったのかということを考えると、立ちすくむ思いがする。まことに理不尽なことが起こっているのです。
今日もそうではないでしょうか。ユダヤの指導者や群衆はイエスを憎み、イエスを呪った。イエスは邪魔だ。自分たちの背神を鋭く突くようなイエスなど要らないということです。ところが、このイエスを妬み、イエスを憎み、イエスを呪った、そのところに十字架が立つのです。使徒言行録3章13-15節にこう記されている。「ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」と。人間の理不尽な仕打ちの中で、主イエスは葬られた。イエスなどは要らないという叫びの中で十字架に付けられた。人間の罪があるところに、しかし、そこに赦しの十字架が立つのです。ここに神の不思議な勝利があるのです。