2016年5月15日
聖書=使徒言行録2章1-13節(ペンテコステ礼拝)
福音を語り出した教会
今日はペンテコステと言い、キリストの弟子たちの上に聖霊が注がれて新約の教会が誕生した記念の日です。使徒言行録1章で、主イエスの弟子たちがエルサレム市内の家の屋上の間で熱心に祈っていたことが記されています。祈っていた弟子たちに聖霊が与えられました。主イエスの弟子たちは臆病な人の集まりでした。権力者や民衆を恐れていた弱い人の群れに過ぎない。信仰の勇者ではありません。その彼らがある時から大きく変わります。生命をかけて伝道に生きるように変わった。福音書の記すペトロと使徒言行録の記すペトロとが同一人とは思えないほどです。その変化の秘密は聖霊です。聖霊は人を造り変えます。この変化の背後にあるのが祈りです。聖霊が注がれる前に、熱心に祈って待つ群れがあった。
私たちも主イエスの弟子たちと同じです。まことに弱い人間です。俗っぽく、人間的な利害関係から抜け切れない。人間的な思いで物事を判断します。キリストの心を心として生きたい思っても徹しきれません。私たちが形づくっている教会の現実はしみもしわもない聖なる教会では決してない。醜さやずるさ、薄汚れた無気力な状態かも知れません。この状況から変わるために祈りが必要です。祈りを通して聖霊の注ぎをいただかねばならない。祈りは神との通路です。この通路を詰まらせ、閉じたままで、神の恵み、聖霊の恵みをいただくことができると考えてはならない。
主イエスは離れて行かれる時、「聖霊を与える」と約束されました。そのお言葉を頼りに祈って待った。祈り続けた弟子たちの上に聖霊が下り、彼らを造り変え、新約の教会が誕生したのです。祈りの大切なことは、いつも指摘される。しかし、実際には祈りに乏しいのではないか。聖霊の力をいただきたいと願うけれど祈りに乏しい。これが私たちの問題なのです。
ここに記されていることは、聖霊の圧倒的な注ぎです。聖霊の働きは旧約の時代にもありました。但し、限定的でした。神に仕える特別な仕え人、預言者や王、祭司に任職される時に油注ぎという儀式をします。この儀式は聖霊の与えられていることのしるしでした。旧約時代には、聖霊はこのようにある特定の奉仕に就く人たちにだけ与えられたのです。
今、ここではまったく違う光景が記されています。「一同は聖霊に満たされ」と記されている。特定の人ではなく、集まっていた弟子すべてに、例外なく豊かに注がれた。ダムの放水に似ている。放水するまではショボショボと水は流れています。しかし、放水を始めると、高い放水口から大きな音を立てて水が孤を描いて落下していく。今までとどめられていた水が物凄い音を出して流れ落ちていく。これが聖霊降臨です。ですから、目で見ることができ、耳で聞くことができる鮮やかなしるしを伴ったのです。
この圧倒的な聖霊の注ぎと満たしは、弟子たちを造り変えて、新しいキリストの教会の歴史を始めさせるためでした。新しいキリスト教会の特徴はみ言葉を世界に向かって語ることです。福音宣教こそ教会のしるしであり、使命です。教会は福音宣教のための存在です。復活の主の最後の命令は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」という宣教命令です。勿論、福音宣教は、ただ語ればいいというのではなく、教えること、戒めること、群れを整えること、隣人に仕えることなどの総体を含んでの宣べ伝えです。福音宣教は総合の業です。
ペトロは説教の中でヨエル書を引用して語ります。「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。ここに語られていることは「万人預言者」です。これが終末の時代の在り方です。すべての者が神の言葉を語る。牧師だけが神の言葉を語るのではない。職制を超えてです。男だけが神の言葉を語るのではない。老若男女、すべてが神の言葉の伝達者です。「万人伝道者」が語られているのです。
この出来事を見聞きした人たちが「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」と言います。弟子たちが語り出したのは、聞いて分からない異言ではなく、外国人に通じる言葉でした。超自然的な一回限りのことでしたが、エルサレムに集まっていた他の国の人たち、外国から来た人に通じる言葉で福音が語られたのです。これは後の教会の伝道の姿を現しています。後の時代は、超自然的奇跡によって他国の言葉を語るのではなく、語学を勉強して、いろいろな国、いろいろな民族の人たちに福音を伝えていきます。宣教師の大切な資格は現地の人の言葉を語ることです。
宣教師というと海外宣教師を考えますが、それだけではない。私たちは日本語を語る人たちに遣わされている宣教師なのです。私たちは生まれた時から何十年も日本語を学んできた。この言葉を用いて、この国の人々に福音を語るように召されているのです。聖霊は、私たちを日本語で神の偉大な御業を語る宣教師として召し、この国に派遣しておられるのです。
けれども、言葉が大切であるとは、言葉を流暢に語るだけの問題ではない。言葉の問題は「相手に分かってもらう」ことです。言葉は上手でも、心が伝わらない場合があります。言葉でどんなに上手に語っても、相手が分からない場合もある。言っている事柄は分かっても、心が動かない場合がある。言葉数が多いと信頼が失われる場合もある。実は、言葉と共に、言葉に添えて、生活と振舞い、福音に生きることが、相手の人に福音を分からせる大事な手段なのです。聖霊は、言葉を語らせると共に、信徒の生活を整え、礼拝を中心とした新しい生活の形を造り出しました。キリストの愛に応える生活を生み出したのです。この生きる姿が、言葉と共に多くの人に福音を証しするのです。自分の言葉と生活と振舞いを通して、福音を伝える宣教師として、この日本に、この町に派遣されている者であることを自覚したい。聖霊の圧倒的な働きは、今も続けられています。