2016年6月5日礼拝説教 「父よ、彼らをお赦しください」

                    2016年6月5日

聖書=ルカ福音書23章32-38節

父よ、彼らをお赦しください

 

 十字架は教会のしるしというだけではありません。十字架はキリストの救いそのものを表しています。パウロは自分のメッセージを要約してこう語ります。「十字架の言葉」、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリント1:23)。十字架は単なるしるしではない。十字架に救いがある。神が罪人を愛して、神の独り子であるお方を十字架にかけてくださった。ここに神の愛があり、この十字架のキリストを信じるところに救いがあるのです。

 

 この聖書個所は、主イエスの十字架が立つところです。十字架はローマ帝国で重罪人が処刑される方法でした。この日、3人の人が十字架刑を受けることになっていた。主イエスとさらに2人の犯罪人でした。彼らも共に十字架を背負って処刑場のゴルゴダの丘に着きました。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」と記されています。

 

 福音書は、イエスの肉体の生理的な激痛について何も記しません。映画などで血なまぐさい無残な姿が描かれます。激しく釘打たれ、血が流され苦痛にゆがむイエスの顔が描き出される。しかし、福音書は共通して、イエスの肉体的な苦痛に対して沈黙しています。肉体的な苦しみを描いて、そこに注目させて同情の涙を流すことを求めていない。ルカも、読者に求めていることは、主イエスの贖いの恵みと愛とに目を向けることです。

 

 「イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。十字架上での主イエスの祈りの言葉です。自分を十字架に釘付けている者たちのために祈っておられます。感動的な主イエスの祈りの言葉ですが、ここで一体、主イエスは誰のために祈っているのか。「父よ、彼らをお赦しください」と言われた。この「彼ら」とは誰のことか。自分を釘付けているローマの兵士たちのことか。それとも取り巻いている民衆や議員たち、ユダヤ教の指導者たちをも含めているのか。

 

 なぜ、こんなことを言うのか。この主イエスのお言葉を巡って幾らかの議論があったからです。特に、イエスを十字架に追いやったユダヤ人の罪が、この祈りの言葉で赦されていいものかとの議論があった。イエスを十字架に付けたユダヤ人の罪は決して赦されない。その証拠に紀元70年にエルサレムは滅ぼされてしまったではないか。エルサレム滅亡の事実こそ、イエスの赦しの祈りがユダヤ人には及んでいないしるしだと言う人さえいた。さらに批評学などを用いる人たちは、イエスは十字架上でこの言葉を語らなかったのではないか。もっと別のところで語られたのが、ここに入ってきてしまったのだという議論をする。聖書解釈の歴史の中で、何とかしてイエスの赦しの祈りの言葉からユダヤ人を除いてしまおう、出来るだけ狭く理解しようという試みがなされてきた。聖書解釈の中にさえ人種差別、人間の原罪が深く入り込んでいることを率直に認めねばならない。

 

 「父よ、彼らをお赦しください」。「彼ら」の中には、イエスを十字架に追いやったユダヤ人も、実際に釘付けたローマの兵士たちも、それだけでなくすべての罪人が含まれているのです。神を知らないで生きている今日の私たちも含まれている。日本の明治期のキリスト教指導者に植村正久がいました。植村はこの祈りについて、このように記しています。

 

 「イエスを殺した者は知らずして、これを行っている。その中で、ただ一人イエスだけが彼らのなしている行為がまことに罪深い、罪の罪たることを感じて、神の前に深く畏れおののいたのである。そして、自ら痛切に彼らが犯している罪の重さを担って、『父よ、彼らを赦したまえ』と贖罪の祈りを捧げられたのである。それはわたしたちが知らず、感じずに犯しているすべての罪悪の重さが、イエスの心を圧倒していたからである」と。

 

 主イエスを十字架に追いやり、釘付けた人たちは、自分たちのしていることの本当の罪深さ、罪の重さについて何にも感じなかった。その中で、主イエスだけが救い主を十字架に付けるという彼らの行為がどんなに神の御前で罪深い行為であるかということを深く知って、痛みを覚えて、その罪をご自分の罪として背負ってくださった。その罪を背負いながら、彼らすべての罪の赦し、贖罪の祈りを捧げているのだという理解です。

 

 今日の私たちも自分の犯している罪の本当の重さを分からない、感じられないということでは、イエスを十字架に付けている人たちと同じです。神を知らず、神に背いて歩んできた私たちすべての罪は、主イエスを十字架に付けよと叫び、十字架へと追いやり、釘づけた人々の罪と少しも変わらない。主イエスは、この罪人のすべての罪を担って、「父よ、彼らをお赦しください」と、祈っておられるのです。ここに、ご自身の血を携えて赦しのために贖罪の祈りを捧げておられる大祭司がおられます。

 

 主イエスのこのとりなしの祈りによって、信じる者のすべての罪が赦されます。ユダヤ人であろうが、ローマの兵士であろうが、神に背き続けている今日の私たちであろうが、赦しがあるのです。主イエスの十字架の贖いが及ばないような罪はない。どんな罪でも、どんな罪人でも、十字架の主を救い主として信じるならば、そこに赦しがある。主イエスの贖罪の祈りの及ばない罪はありません。自分の罪をしっかりと認めて、悔い改め、主のもとに来るならば赦しが与えられるのです。

 

 「イエスよ。お前は自分を救え。十字架から下りてみろ」と、人々は叫びます。これこそサタンの最大の誘惑です。主イエスは自分を救うのではない。主イエスは無力のようですが、救い主として十字架を担い続けておられます。これが真の救い主です。もし、十字架から降りてしまったら、それこそ救い主失格です。罪人を救うために十字架を下りません。主イエスは私たちの罪をご自分の罪として背負いながら、私たちの大祭司として私たちの罪の赦しと救いとを父なる神に祈り求めてくださっているのです。