2016年7月10日
聖書=ルカ福音書23章50-56節
死にて葬られ
キリストの葬りについて記しています。使徒信条は「主は、…十字架につけられ、死にて葬られ」と告白します。短かく切り詰めた文章で、主イエスが死んだだけでなく、葬られたことを語る。ハイデルベルク信仰問答は、主イエスの葬りを正面から取り上げている数少ない教理問答です。問41「なぜ、この方は『葬られた』のですか」。答「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」。人が死んだら葬られることは当たり前のこと。それを、なぜ、取り上げるのか。ハイデルベルク信仰問答は、葬りは主イエスが確かに死んだことの確証だと語る。主イエスは本当に死んだ。主イエスが死んだことの確認が葬りです。イエスの死は、仮死やその類のものではない。確かに死なれたということです。
私は教会員の葬儀を何度も司式してきました。悲しいことですが、その中で、私もですが、残された遺族や周囲の方が、いつ、どの段階で、その方が死んだという事実を実感として受け止めるかということがあります。先ず、納棺をする時です。それまで床に寝て、今までと同じ生きているようです。家族の人にはまだ生きている。しかし、棺に入れられと別の存在として感じる。さらに火葬の時です。その時までは棺の中に入っていても顔を見ることも、手で触ることも出来る。お骨を拾う時、そこにはもうあの人の姿はありません。最後に、死んだんだと実感するのはお墓へ納骨する時です。その時まで「あの人のもの」がここにありました。しかし、帰る時には、もう何もありません。数週間前まで、数ヶ月前まで話をし交わりを持っていた人がいない。本当に死んでしまった、と実感する。
主イエスというお方も、そのように確かに死んだ。聖書はそれを語りたいのです。主イエスの場合、日本とは違い火葬はありません。しかし、主イエスも一人の人間として歩むべき道筋、死と葬りとを受け止められたお方なのだということです。ここでピリオドが打たれたのだと明らかにされたのです。確かに死んだ。ここから復活の事実が意味を持つのです。
ヘブライ書4章15節に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と記されている。主イエスは同じ人間の歩み、地上の生涯を過ごされ、その終わりとしての死も体験された。讃美歌532番2節に「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにもみ跡見ゆ」と歌われます。人の最も大きな不安と悲しみ、死のただ中にも、キリストのみ足の跡がくっきりと残っている。私たちは主イエスに結ばれて、生きている時も死ぬ時も、キリストのみ足の跡に従っていくのです。キリストのみ足の跡は地上だけでなく、死の世界においても、さらに復活のところまでしっかりとついている。主イエスに結ばれて、主と共に、主が歩まれた跡を共に歩んでいくのです。
主イエスの葬りに深くかかわったのがアリマタヤ出身のヨセフという人物です。この人物について聖書が記しているのは、主イエスの葬りの時だけです。「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである」。さらにヨハネ福音書には、主イエスを夜、こっそりと訪ねたニコデモが「没薬と沈香」を持ってきて埋葬を手伝ったことが記されています。ニコデモもサンヘドリンの議員です。
これらの記述から浮かび上がってくるのは、外面的には金持ちで最高法院・サンヘドリンの議員という社会的な地位を持つ人たちです。しかし、内面的にはイエスの弟子で神の国を待ち望んでいた人であった。そして、この時までその信仰とイエスの弟子であることを公にせず隠してきた。最高法院の決議や行動には内心では賛成しなかったが、では堂々と反対したか。決してそうではない。人を恐れ密かに隠れてイエスの弟子となっていた。日本には隠れキリシタンという人たちがいた。江戸時代、キリスト教が厳禁されていた。その中で表面的には仏教徒を装いながら、内心ではキリストを信じていた人々です。アリマタヤのヨセフやニコデモはそういう人々であったと言っていい。ペトロたちのように信仰を表に表していない。金持ちで最高法院の議員という社会的な地位の故に世間の目を恐れていた。今までイエスの弟子たちとも親しい交わりもなかったでしょう。
ところがイエスの死において、ペトロたち弟子たちとアリマタヤのヨセフたちとの立場が逆転してしまった。今まで自分たちはイエスの弟子であると公言していた人たちがユダヤ人を恐れて、散り散りバラバラに逃げ去って姿を隠してしまった。今やペトロや他の主だった弟子たちが、隠れキリシタンになってしまっている。そして、今まで隠れていたアリマタヤのヨセフが、ここでは公然と総督のピラトのところに行って「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」。勇気が要ったと思う。十字架につけられたイエスと親しい関係にあること、イエスの弟子であることを、実際の行為によってはっきりと公然と示した。
このアリマタヤのヨセフたちによって、主イエスはこの地上における最後の死者儀礼をお受けになられた。もう安息日が始まろうとしている夕暮れ時です。あわただしくではあったが、主イエスのご遺体は十字架から降ろされ、没薬と沈香が注がれ亜麻布で包まれ、アリマタヤのヨセフ所有の岩に掘った墓の中に納められたのです。信仰の告白は、普通、口で告白されるものですが、口だけで、言葉だけではない。具体的な行いによってもなされるのです。アリマタヤのヨセフは、その行いを通して自分の内なる信仰を告白した一人です。ピラトの面前で、さらに祭司長たちや仲間の最高法院の議員たちの目をはばかることなく、自分の人生をかけて、命をかけて告白した。「私はキリストのものだ。キリストの弟子なのだ」と。