2016年7月24日
聖書=ルカ福音書24章1-12節
主は復活された
週の初めの日、墓に向かって足早に急ぐ婦人たちの姿が描かれています。「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」。この婦人たちの心は悲しみと絶望に被われていた。十字架で息絶えたイエス、その身体は鞭によって裂かれ、手は釘打たれ、槍で裂かれた脇腹、見る者の顔を背けさせる惨めな姿でした。婦人たちはこの惨めな主イエスのお姿を見て、何も出来なかったことが心残りです。婦人たちは、希望をもって胸を弾ませて墓地を訪ねたのではない。悲しみとあきらめに満たされて、しかし、女性としての細やかな情愛をもって墓を訪れた。死者である主イエスの身体に香料と香油を塗って遺体に最後の別れをし、主イエスの思い出を語って泣くためにやって来たのです。
しかし、墓に着いてみると、墓を固く閉ざしていた石がころがされていた。中にあるはずの主イエスのご遺体は見当たらない。途方にくれていると、「輝いた衣を着た2人の人」が現れた。神のみ使いです。み使いはこう語ります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。これがキリスト復活の最初のメッセージです。そして、墓を訪れた女性たちが最初の主の復活の証人です。み使いが告げた復活のメッセージは3つのことを指摘しています。
第1は「あの方は、ここにはおられない」ことです。「ここ」とは墓です。主イエスは最早、墓の中にはいない。実際、墓は空でした。と言って、どこかに取り去られたのでもない。「あの方は、ここにはおられない」とは、「死の中に閉じ込められていない」ことです。「あの方は」死人を閉じ込める墓の中にはいない。もはや死に支配されていない。私たちは主イエスにお会いするために、お墓に行く必要はなくなったということです。
第2は「あのお方」イエスは今、復活して生きておられます。み使いは「生きておられる方」と語られた。主イエスはこの後、多くの弟子たちに現れて、生きておられることを明らかに示して下さった。主イエスの復活が事実であることを示すのは、出会った人たちの目撃証言です。ですから、新約聖書は復活の主に出会った人たちのことを次々に記しているのです。
けれど、み使いが語る「あの方は、生きている」とは、私たちが普通「私は生きている」という言葉とは意味が違う。私たちも「生きている者」ですが、厳密に言うと、生きていながらも死に向かっている。死に向かって生きている者です。私たちは、このことを忘れて生活している。ある修道院では、修道士同士で挨拶を交わす時「メメント モリ」と言い交わすとのことです。「メメント モリ」とは「あなたは、死ぬべき者であることを覚えよ」というラテン語です。生きていると思っているが、実は死ぬべき者だ、死に向かって生きている。切り花のようなものです。美しく咲いているように見えるが必ず枯れる。それが私たちの本当の姿なのです。
主イエスが「生きているお方」とは、再び死ぬことはない、永遠の命に復活されたこと、死を打ち破って生きたお方となったことです。死に勝利されたお方、永遠のいのちを獲得されたお方、それがみ使いの告げる「生きておられるお方」ということです。このことをしっかり受け止めないと、復活の意味が分からなくなります。イエスの復活は「死んだ人間が生き返った」ことではない。主イエスはラザロを生き返した。ラザロは生き返ったが、また死んで今度は本当に葬られた。しかし、主イエスはよみがえって、もう死ぬことはない。今も永遠に生きておられるお方です。
み使いのメッセージの第3は、このような主イエスの十字架と三日目の復活は、イエスご自身がガリラヤにおられた頃から、即ち早い時期から話してこられたことではないかという指摘です。確かに、主イエスは極めて早い時期から、ご自身の受難の死、3日目によみがえることを繰り返し語っておられます。ところが弟子たちは忘れていた。無視してきた。軽視してきた。人間は自分に関心がないこと、つまらないと思うことは、頭から無視し、知らない、聞いていないということになってしまうのです。
婦人たちも、このみ使いの指摘を受けて「イエスの言葉を思い出した」。「そうだ、イエス様は『3日目によみがえる』とおっしゃっておられた」と受け止めることが出来たのです。そして、墓から急いで帰った婦人たちは「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のですが、信じてもらえませんでした。使徒たちを含めて男性たちは、まだ不信仰の中に留まっています。その中でただ一人、「ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」と、記されています。ペトロは実際に墓に行って、イエスのお体がないことを確認して驚いている。しかし、この驚きは復活信仰の驚きではなく、この事態をどう理解していいのか分からない驚き、不安です。
では今日、私たちはどこに行って生きたキリストにお会いできるのでしょうか。墓に行く必要はなくなった。墓ではなく、弟子たちの集まりである教会の礼拝の中に臨在してくださる主を求めることです。礼拝の場において、み言葉と聖餐によって臨在される生ける主にお目にかかるのです。主イエスご自身がその日の夕方、弟子たちの中に現れてみ言葉を語ってくださいました。ルカ福音書には、エマオ途上での主イエスの現れが記されています。ヨハネ福音書ではエルサレムの家の中で閉じこもっている弟子たちに現れて「平安があるように」と言われて十字架の傷跡を示されたことが記されています。主イエスは、実際に弟子たちの集まりの中に現れてくださいます。復活された主イエスは、今も私たちの中に現れて、み言葉を語られます。私たちは主にお目にかかるために、死人の中に主を訪ねるのではなく、み言葉によって私たちの中に現れてくださる生ける主を礼拝するのです。そこで、前にも後ろにも上にも下にも、主の復活のいのちによってどっぷりと取り囲まれているのだという発見をするのです。