2016年9月4日
聖書=ルカ福音書24章33-43節
からだの復活
「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」。二人の弟子は夕食も取ってしまっていたにもかかわらず、11キロ余りの道のりをもう一度エルサレムへと引き返した。復活の主に出会った喜びの体験が、彼らを再びエルサレムの弟子たちの集まりに加わろうという思いに駆り立てた。「時を移さず出発して」という言葉に、その思いが表れています。これが健全なキリストの弟子の姿です。信仰の仲間を求めるのです。キリスト教信仰は交わりを形造る信仰です。他の弟子たちと一緒に群れとして主を礼拝するのです。復活の主ご自身も群れの中に現れてくださいます。
二人がエルサレムに戻ってみると、使徒たちや他の弟子たちも集まっていた。そこで互いに復活された主イエスのことを報告しあい、語り合った。「イエス様は本当に復活した」と、弟子たちも理解し始めた。ところが、実際に復活の主が現れると、彼らの不信仰が露わになる。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。「亡霊」、死人の霊を見ていると思って恐れた。私はヘブライ人の考え方の中にも「幽霊」なんてものがあるんだなあと面食らいました。
実は、このことが、ここにわざわざ記されたのには理由があります。ルカ福音書が記されたのは紀元60年代です。キリスト昇天後30年以上経ってキリスト教信仰がユダヤ人世界から異邦人、特にギリシャ・ローマの精神文化の中に生きる人たちの中に伝えられていっています。ギリシャ思想の中に強くあるのは霊肉二元論です。霊的な事柄は善、肉的な事柄は悪という考え方で、キリストの復活も霊的な事柄であり、悪の原理である肉体での復活などはありえないと受け止められる危険性がありました。
使徒信条には「よみがえり」という言葉が2回語られています。1回はキリストの項で「3日目に死人のうちよりよみがえり」です。次に第3項で、罪の赦しの後で「体のよみがえり」と言います。この第3項の「体のよみがえり」は、私たち信徒の復活です。私たちはキリストを信じて罪の赦しをいただきます。キリストが身代わりとなって罪の支払いをしてくださった、贖いをしてくださった。その結果、罪を赦され義とされた。
それだけでなく体のよみがえりを約束されている。私たちはキリストを信じても聖化の完成としての死を経験する。しかし、死んで終わりではない。終末には体が復活して魂と一つに結合して完成されるのです。キリストの復活の体に似せて、私たちも体をもって復活するのです。これによって救いが完成する。キリスト教信仰は単なる霊的復活を語りません。救いは体の復活をもって完成する。キリスト教はギリシャ的な考え方を取りません。ルカ福音書の視野の中には、ギリシャ的二元論への闘いと弁証が入っています。キリスト教は体を大切にし体の復活をもって完成する信仰です。この体の復活の先駆け、初穂がキリストの体をもっての復活です。キリストがよみがえられたように私たちもよみがえる。福音書記者ルカはキリスト復活の出来事を体の復活という視点から取り上げているのです。
「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。…こう言って、イエスは手と足をお見せになった」。復活して、今現れているお方は体を持っているということです。「わたしの手や足を見なさい」と。どうして、こんなことを言われたのか。主イエスの手と足には釘跡がある。十字架上で死なれたしるしです。主イエスのよみがえりは十字架で死んだお方がその体をもってよみがえったということです。
けれども、素直には信じられない。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」。彼らは喜んでいる。しかし、まだ合点がいかない。ポカンとしている状態です。そこで主イエスは言われます。「ここに何か食べ物があるか」と。「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」。エルサレムの弟子たちも食事の最中であった。そこに主イエスが現れてくださった。復活の出来事を記すところで食事の光景が繰り返し出てくる。当時の教会の交わりの姿を示しています。
その中で私が関心を持つのは、復活の主イエスが魚を食べられたことです。生活の匂いがする事柄です。主イエスは、食事中であった弟子たちがとっさに差し出した焼き魚一切れを受け取って、彼らの見ている目の前で食べた。ここに、主イエスの体の復活が明らかにされている。主イエスは確かに体をもってよみがえられた。魚一切れを弟子たちの目の前で一生懸命に食べてくださる主イエスのお姿に、主の暖かい思いが伝わってくる。むしゃむしゃと魚をほうばるお姿から、主イエスの温かな思いやりが伝わってくる。このようにわたしは復活し、体をもって生きている。あなたがたも、このように生きるのだと、事実、現実の姿で示されたのです。
椎名麟三という作家がいました。元々、共産主義者でしたが、戦後導かれて教会に来るようになり、聖書を読み始め、この復活の主イエスが弟子たちの目の前で焼き魚を食べられたというところで、彼は翻然とキリストの復活が信じられたと記しています。作家としてこの情景を思い描いたのです。この時、主イエスの口の周りには焼き魚の残りが付いていたかも知れないと言います。格好のいいものではありません。しかし、主イエスはこのようにしてまで弟子たちにご自分の現実に生きておられる姿を示されたかったのだ。ここに主イエスの愛が現れていると、彼は受け止めた。
私たちも魚を食べて生活しています。その生活のレベルにまで、主イエスは降りてこられて、ご自分の生きておられること、その復活は体をもった復活なのだと、現実の姿を信じるようにと導いておられるのです。復活の主イエスは魚を食べられた。私たちと同じように食べることによって、主イエスは体をもってよみがえられたことを示してくださったのです。