2016年9月18日
聖書=ルカ福音書24章50-53節
天に上げられた主
ルカ福音書を締めくくるのは、主イエスが「天に上げられた」出来事です。明治時代のキリスト教指導者に植村正久という牧師がいた。この先生が、まだ年若い女性の洗礼試問の時、このように尋ねたそうです。「あなたは、今、イエス様はどこにおられると思いますか」と。女性は戸惑いましたが、使徒信条の「3日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」を思い出し、「天におられます」と答えた。正解です。主イエスが天に上げられ、今、天におられることは大切な信仰の事柄です。若い女性が洗礼を受け信仰生活をしていく。多くの試練に出会う。苦しみに遭うこともある。その時、誰に頼って生きていくのか。信仰生活の最も大切なことが、この主イエスの昇天に関わっているのです。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。「そこから」とはエルサレムからです。ベタニアは直ぐ近くです。44節から一続きのこととして描かれています。「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とお命じになった後のことです。「彼ら」とは、使徒たち、復活の証人となった女性たち、エマオから帰って来た弟子たち、イエスの家族たち、ベタニアはマリア、マルタの姉妹の住んでいるところですから彼女たちも集まってきていたでしょう。ここに記されているのは、主イエスが弟子たちから離れて行ったという単なる別離の物語ではない。「手を上げて祝福し」、「天に上げられた」という文章を見落としたら、師弟の悲しい別れの記事になってしまう。この後、なぜ、弟子たちが「大喜びでエルサレムに帰った」のか、分からなくなってしまいます。
ルカ福音書は「喜びの福音書」と言われます。羊飼いたちにキリスト降誕を知らせた御使いは、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言って、飼い葉桶の中に寝ている救い主の誕生を教えました。キリストの出来事は、その誕生から十字架の死、復活、この昇天も大きな喜びなのです。もし、ただ弟子たちと別れて行ったのであるならば、弟子たちは孤児になり、狼の群れの中に取り残された羊のようになってしまう。しかし、彼らは大喜びでエルサレムに帰って行ったのです。
昇天は、主イエスが弟子たちの見ている前で、その体をもったまま、この地上から天に上げられたことです。主は地上から天の世界に戻られたのです。主は今、復活の体をもって神のおられる世界である天におられます。救い主としての使命を全うして、死に勝利し凱旋されたのです。
天に上げられる時の主イエスのお姿は「手を上げて祝福され」、「祝福しながら彼らを離れた」と記されています。主イエスが弟子たちに示された最後のお姿は、彼らを祝福する姿でした。祝祷・祝福は、旧約時代、イスラエルの民の大祭司がしていました。神の臨在と祝福が神の民にあることを宣言することが祝祷です。主イエスが私たちの罪を贖って、私たちの大祭司となって祝福を宣言してくださるのです。「あなたがたは神の民だ。神が共にいます」という宣言です。その祝福の宣言の内容は2つあります。 1つは、聖霊を与えることです。主イエスの祝福は実体を持つ祝福です。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われました。「高い所からの力」こそ、天に上げられたキリストから与えられる聖霊です。聖霊が与えられることが祝福の内容です。この聖霊について多くのことを記すのはヨハネ福音書14章です。主は天から別の弁護者を遣わしてくださいます。真理の霊です。この霊があなたがたと共におり、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われ、さらに聖霊は「あなたがたにすべてのことを教え」、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われました。
聖霊が与えられるとは、地上に残された私たちがキリストに結ばれて、キリストご自身を与えてくださることです。復活のからだを持つキリストであっても、この地上におられる限り、場所的、時間的に限定されます。キリストが天に上げられて、永遠・普遍・無限の霊である聖霊が送られる。だれにも、どこでも、いつでも、聖霊が与えられる。聖霊が与えられるところで、私たちはもはや孤児ではない。いつもキリストと共にいる。こんなすばらしいことはない。弟子たちはこのことを悟って喜んだのです。
祝福の第2の内容は、天に上げられた主イエスが大祭司として、私たちのために、いつもとりなしていてくださることです。主イエスは昇天して、わたしの務めはもう終わったと休息しているのではありません。天に上げられた主は、父なる神の御座の右に座してキリストのものとなった私たちのためにとりなしの祈りをしてくださるのです。これこそ、主イエスが天に上げられた目的です。私たちは信仰を持っても失敗を繰り返す。信仰の挫折をする。大祭司となってくださった主は、そのような私たちのために祈りつづけていてくださるのです。ペトロの失敗を予見された主は「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われた。同じように、天に上げられた主イエスは私たちのためにとりなしの祈りをしてくださり、その祈りによって罪と失敗から立ち直らされているのです。
私たちの信仰生活が維持されているのは、私たちの人間的な頑張りではないということをよくよく自覚しておかねばならないと思っています。私たちの弱さと失敗、罪にもかかわらず、とりなしていてくださる主イエスが天におられます。ここに私たちの信仰が固く保持される秘密があるのです。今、キリストはどこにおられるかということは、今日の信仰者である私たちにとって大切なことです。主イエスは父なる神の右で私たちのためにとりなしていてくださいます。主イエスのとりなしの祈りに支えられて、私たちは信仰者として生き、歩むことが全う出来ているのです。