2016年10月23日
聖書=ヨナ書2章1-11節
陰府の淵からの祈り
「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」。ここから逃亡したヨナを回復してくださる神の恵みが語られています。「巨大な魚」が何であったかと詮索する人もいるが、あまり意味がない。巨大な魚は神の摂理の道具として用いられたにすぎない。詩編23編「死の陰の谷を行く時」とある。死と生の境界線です。陰府という言葉もある。死者のいる世界です。巨大な魚に呑み込まれるとは死の陰の道、陰府の淵に立たされた。ヨナは魚の腹の中にいた。死と隣り合わせの異常な場所です。そこが神の備えて下さった場所です。ヨナは神の御手の中に落ちたことを悟った。
2章はヨナの祈りの章です。ヨナの祈りの内容を区分すると、2-3節は危機の中での祈り、4-7節は悔い改めと感謝の祈り、8-10節は献身の祈りです。主から逃亡していた時には、危険が目前に迫り、人が神に助けを祈り求めていても祈れなかった。神の顔を避けて逃げている時には祈れない。私たちが祈れない時、主から逃げようとしているのではないかと点検してみることが必要です。しかし、陰府の淵に立たされた時、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて言った」のです。「自分の神、主」に祈った。海の藻屑となろうとした時、自分を呑み込んでくれた魚があった。死と隣り合わせで、彼は「自分の神」を見出だした。逃れようとした神が自分の神であることを再発見した。自分を徹底的に追い求めて下さる神を「自分の神」として意識した。
ヨナは「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」と言います。ヨナを海に投げ込んだのは船乗りです。しかし、そこに神のみ手を見た。神が自分にこらしめを与えた、と。同時に、ヨナは主なる神が救いの道を備えていることも悟った。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。「答えてくださった」「聞いてくださった」。神への感謝の言葉です。荒れ狂う海に投げ込まれ沈んでいく時、言葉にならない言葉でヨナは神を求めた。「神様、助けてください」と。切羽詰まった祈りが聞かれた。「溺れる者はワラをもつかむ」ような信仰は嫌だと言う人がいる。人生の危機を知らないから、そんなことが言える。本当に危機に瀕したらメンツも何もかも捨てて「神様、助けてください」となる。素直に「主よ、助けてください」と祈り求めたい。助けを求める素朴な祈りを、主は聞いて答えて下さいます。
次に、ヨナは自分の罪と失敗を思い返して悔い改めています。ヨナはニネベに行くのは嫌だ。その町も人間も嫌いだ。異邦人の所に行くなどは嫌だと、だだをこねていた。ところが弱くされた時に、ヨナは神に目を向ける者となった。人が弱くされる時は恵みの時でもあることを自覚しなければなりません。「潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと」。ヨナが海に投げ込まれたのは、神に背いた結果であることを厳粛に受け止めている。「水が喉にまで達し」て、「深淵に呑み込まれ」、地の底まで沈み、「地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」と。神に背き罪を犯し、死と滅びは必然と受け止めた。自分はその当然の報いを受けようとしている。
ヨナは言います。信仰の回復です。「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうか」と。神から逃げていた時、神殿のことなど忘れていた。神殿は神との交わりの場で、犠牲が捧げられ、祈りが捧げられ、神と会見をする。死に直面して、二度と神殿で礼拝を守ることが出来ないと思うと、かつての日々がどんなに深い恵みであったかと思い返すのです。実は「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうか」との疑問文の訳し方以外に、新改訳では「もう一度、わたしはあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と願望として訳している。神殿の恵みを思い返すだけでなく、そこにもう一度立ち戻りたい、神殿で再び主に仕えたいという願いです。これこそ、神への立ち帰りとしての悔い改めです。旧約時代は神との関係が神殿とのかかわりで語られます。神との関係がずれたままでは死んでも死に切れない。「わたしはあなたの目の前から追放されました。しかし、もう一度、わたしはあなたを聖なる宮、神殿で礼拝したい」。ヨナの切なる願いです。
ヨナは「わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」と告白します。彼はまだ魚の腹の中、陰府の淵にいる。しかし、救いを実感している。贖われた者の賛歌です。生きることの歓喜に変わっている。ヨナが変えられた。神の救いの恵みを確信した。ヨナは死の淵に立った。その滅びの穴から「引き上げてくださった」と実感したのです。これは復活です。この後、魚の口から吐き出されて文字通りに復活する。
ヨナは服従と献身を表します。自分の不真実を通して神の真実を見たと言ってよい。自分を愛し選んで下さる神の真実がどこまでも貫かれる。逃亡しようが、どうしようが、神は忍耐して追いかけ真実を貫いて下さる。この真実な神との交わりが回復された時、神との真実に生きざるを得ない。ヨナは預言者としての召命に生きることを決意した。ヨナは言います。「わたしは感謝の声をあげ、いけにえを捧げて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」。神のあわれみと救いは服従と献身を生み出します。
救われた者として生きるとは奉仕する者として自分を差し出して生きることです。救いは奉仕を生み出します。宣教者として生きることこそヨナの本来あるべき姿、喜ばしい奉仕の姿です。神が人を救うのは奉仕をする者になるためです。ヨナは陰府の淵から再び大地の上に立ちました。魚の胃液に溶かされ姿形は変わっていた。しかし、主の前から逃げたヨナとは全く違っています。預言者としての使命を担って生きるヨナへと変わった。ヨナは挫折と失敗において主の栄光を表す器とされました。私たちも、このヨナの物語から失敗と挫折を恐れてはならないことを知るのです。私たちも失敗と挫折の中で主の栄光を表す器とされることを覚えたい。