2016年10月30日
聖書=ヨナ書3章1-5節
再び臨む主の言葉
「主の言葉が再びヨナに臨んだ」。地上に吐き出されたヨナに再び預言者としての召命の言葉が語られました。ヨナを預言者・伝道者としてニネベに遣わす神のご計画は少しも変わりません。主の言葉が人に臨むとき、それは必ず実現します。預言者イザヤは「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしの元に戻らない。それはわたしの望むことをなし遂げ、わたしがが与えた使命をかならず果たす」(イザヤ55:11)と語ります。主の言葉がヨナを捕らえて離さず、回復させて再び派遣する。これが預言者を支える力、伝道者を根底から支える力です。
「大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」と言われます。ある方がヨナは何で逃げたのか分からない、と言う。それは「ニネベ」の町の意味が分からないからです。アッシリア帝国の首都で、北イスラエル王国にとっては天敵と言っていい。小国イスラエルを圧迫し、隙あらば侵略される恐れがあった。単純な外国伝道ではなく、自国を滅ぼす力と可能性を持つ敵国への神の愛の伝達です。このニネベの町に神の言葉を語るなど、どうしても出来なかったのです。しかし、今度は「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」。逃亡の経験を通して主のみ言葉の重さと力を知った。ヨナは主の言葉に従って「直ちに」行動に移った。
今回、ヨナが知った大事なことは神の神の愛の広かりです。「ニネベは非常に大きな都で」と記されている。別訳では「神にとって大いなる」となっています。「大きい」とは、一周するのに三日かかるという面積の広さだけではない。「神にとって大切な」という意味が含められている。神が、なぜ、ヨナをニネベに遣わしたのか。大都会には神に背いて生きる人間の悪徳と欲望が渦巻いている。しかし、ヨナ書は大都会に生きる人に注がれる神のあわれみのまなざしを語るのです。イザヤはイスラエルに注がれる神の思いを「わたしの目にあなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛し…」(イザヤ書43:4)と記した。神の民イスラエルに注がれるのと同じ神の熱い思いが異邦人の住む大都市ニネベにも注がれている。ニネベだけでなく、日本の都会に住む人たちにも神の愛の思いが注がれているのです。
さらに、ヨナが知ったのは神の言葉の力、その絶大な効力でした。ヨナは歩きながら「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んだ。ヨナが語るように命じられ、また語った言葉は極めて簡潔です。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」。彼の語ったメッセージの内容はこれに尽きます。ニネベに住む人たちに対して神の裁きがある。このままでは滅ぼされる。滅びに対して40日の猶予が与えられているということです。
このヨナのメッセージを読んで、どう感じますか。冷たく結論を語るだけです。ヨナは、罪に怒りたもう神、神の裁きを語った。神の裁きのメッセージを宣言した。神はあなたがたを愛していますよ、などという愛のメッセージはない。勿論、背後には神の愛があるが、メッセージ自体の中では語られない。アメリカのピューリタン説教者にジョナサン・エドワーズがいた。彼の代表的な説教に「怒れる神の御手の中にある罪人」という主題説教がある。罪に対する義なる神の正しい怒りと地獄の苦しみを徹底的に強調した説教です。ジョナサン・エドワーズが説教する時、会衆は神の怒りの説教に気絶し卒倒するほどであった。ここに説教の1つの典型がある。甘ったるいことを語るのではない。罪に対する神の怒りと悔い改めなければ滅びるというストレートな説教が今日も必要だと考えています。
ヨナのメッセージから、今日の説教を考え直すことも必要だと考えています。ヨナのメッセージは「滅びの警告」、滅びのメッセージです。彼の不器用で冷たく結論を語るだけの性格が神に用いられている。神の裁きを伝達する器としてはヨナは最適な器であったと言っていい。ある聖書の学者はヨナの容姿も与っていただろうと言います。大魚の腹の中で胃液によって変容したヨナの姿は神の裁きのすさまじさを裏書きしていた。
ヨナのメッセージはニネベの町の人に大きな衝撃をもって迎えられた。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼び掛け、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」と記されている。すぐ結果となって表れました。町のすべての人が悔い改めた。なぜ、こんなにも早くヨナのメッセージがニネベの町の人に受け入れられたのか。ニネベの町がなぜ滅ぼされなければならないのか、を考えると分かります。1章2節に「彼らの悪はわたしの前に届いている」と語られています。創世記のソドム、ゴモラが滅ぼされたような理由が考えられる。性的な堕落や無秩序、刹那的な快楽、政治的な混乱と暴虐、その背後にある宗教の堕落などがあった。
ニネベには滅ぼされなければならない理由が確かにあった。それが「神に届いた」だけでなく、ニネベの町の住民自身が自覚していたのではないか。それほど悪が巨大だった。神によって断罪されても仕方のない状況だということを、住民自身が分かっていた。そのため、ヨナの宣教の言葉は枯れ草の山に火を付けたようにニネベの町中に伝わって行った。アッと言う間です。内心思っていたことですから、たちまち伝わる。
その結果が、明確な悔い改めです。「すると、ニネベの人々は神を信じた」。ヨナの伝える「まことの神」を信じた。「断食」は悔い改めの業です。「滅びる以外ない」という恐れから、彼らは自分たちのとるべき姿勢を素早く整えた。「身分の高い者も低い者も」悔い改めのしるしである粗布を身にまといます。ヨナの伝道は神の言葉の力を示すものです。私たちも神の言葉を聞いて、同じ真実の悔い改めをしなければならない。ニネベの人々の悔い改めは、今日の私たちに対する警告なのです。ルカ福音書11章32節で、主イエスは「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われました。主イエス・キリストのみ言葉を聞き流して悔い改めないならば、裁かれ、永遠の滅びは必定です。私たちも真剣な悔い改めを求められているのです。