2016年12月4日
聖書=ヨハネ福音書1章1-5節
造り主なる神
「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語「アドベントウス」から来た言葉です。クリスマスの時を心をわくわくさせながら準備して待つ期間、さらにそこからキリストの再び来られる再臨をも覚えて待つ時とされています。クリスマスを待つ準備の時、備えの時です。ロウソクを灯しながら、私たちも想いを主イエスの到来に集中させていく時なのです。
先週は、イエスが「言」(ロゴス)という言葉で表され、神を現すお方、神を示すお方であるとお話ししました。そして、その神を示すロゴスであるイエスが「神であった」、永遠の初めから「神と共にあった」お方であると申し上げました。この「イエスが神である」ことから、次にイエスと被造物との関わりが問われます。イエスが神であるというなら、世界万物、被造物との関わりはいったいどうなるのか。
「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つもなかった」。これは使徒ヨハネの信仰の告白です。それだけでなく使徒たち・初代教会の信仰の告白です。言・ロゴスであるお方は、被造物の側に立つのではなく、万物の造り主である。このことを、ヨハネは創世記の記す神の天地創造から読み取っていく。この世界は、ロゴスであるキリストが神と共におられて造られたのだと語る。「言によって」とは、ロゴス・言に媒介されてということです。神の創造はロゴスが媒介してなされ、造られたのだ。被造物の一つ一つ、その全てがキリストに係わりがあり、キリストとの係わりのないものは何一つもないという信仰の告白です。
ヨハネが創世記1章をしっかり受け止め、読み解いていると言っていい。創世記1章3節「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。これから始まって、六日間にわたる神の創造はすべて「神は言われた」という、神が言葉を出されることによってなされていきます。神の意志の表現・神の思いが言葉として語り出されます。すると、その通りになった。神はご自身の言葉を通して、言葉を介して、この世界を創られた。これが創世記が示すことです。ヨハネは、創世記の語る神のご意志の表現としての言葉を受け止めて、この神の言葉こそ神の永遠のロゴスであり、キリストなのだ、このロゴスこそ神の創造の言葉なのだと記しているのです。
今日、ヨハネ福音書の冒頭の言葉をなにげなく読み過ごすかもしれません。しかし、ここには私たちの住む世界が肯定されている。ある人々は、この世界は悪に満ちた世界だ、こんな悪しき世界を神が造ったとは到底言えないと主張する。確かに今日、世界を見ると悪いことばかりのように思えます。戦争があり、饑餓があり、あざむいたり、人を陥れたりします。大きな地震があり、津波が起こり、そこで生活している多くの人たちの生活と命を呑み込んでしまう悲しい出来事も起こっています。これらを見ると、そこに神の御手を見ることなど出来ないように思う。
けれど、現実のこの世界の中にある全てのものが、そのままで是認、肯定されているのではない。そこには人間の罪と堕落の問題があるからです。神がこの世界の悪と堕落も肯定し是認しているというのではない。しかし、なおどのような悪と堕落の中でも、世界の中にあるどんなものも、神とキリストとの関わりの中で存在しているのだ。神とキリストこそが、この世界のまことの造り主である。これが創世記が語ることであり、それをキリストに在って読み解いていったヨハネの信仰の告白なのです。
実は、神の創造という信仰に立つところで、世界には回復と救いの希望があるのです。旧約預言者イザヤはイスラエルの救いを神の創造に根拠づけています。イザヤ書46章3-4節を読みます。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。神があなたたちを造った。その故に、神はあなたたちを担い、救い出すのだと言われているのです。
キリストが創造の媒介者であったゆえに、被造物が罪の陥った時に、キリストが回復して下さるのです。神の永遠の言であるお方が、なぜ、救い主として地の上に立たれたのか。なぜ神であるお方が、人の世界のために身を低くされて十字架にまで降られたのか。父なる神がこのロゴス・言であるお方を媒介にして天地を造られたからです。神の創造を根拠にして救済と回復とが分かるのです。神が言を用いて世界を造った。その故に、創造主であり創造の媒介者であるロゴスが、造ったものを最後まで責任をもって担い、背負い、救う。ここに、世界の救いの希望があるのです。
私たちの改革派教会の創立宣言をお読みになった方は、どれほどおられるでしょうか。この創立宣言の中に「有神的人生観乃至世界観」という言葉がある。「有神的人生観、世界観」とは、一言で言えば「神あり」という視点で人生を見ていく、「神あり」という見方で世界を見ていくことです。人生を考える時、世界を理解する時、「神なし」という視点で見るか。それとも「神います」という視点から出発するのか。私たちは「神います」という視点に立って世界と人生を見ていくのだ。それだけのことです。
そして、このことは本来、旧約・新約の聖書自身が持っている根本的なものの見方なのです。聖書の基本的な主張です。「初めに、神は天地を創造された」というところから来る聖書の主張です。神が世界を造られた。世界のすべては、すべての被造物は何一つとして、神とキリストとの関わりなくして存在し得ない。人の命も神が造られた神の賜物なのだ。この視点に立って、自分の人生を切り開いていくのだ。この世界は神のもの、神の所有であるという視点に立つところから、世界を見ていく時に、この世界に対する理解が大きく変わってくるのです。これが創世記から始まって旧約を貫き、さらに新約のヨハネ福音書を貫く基本的な主張です。