2017年1月22日
聖書=Ⅰペトロの手紙1章6-9節
喜びの源泉
この箇所のテーマは「喜び」です。ペトロの語る喜びには2種類がある。2重の喜びと言っていい。ペトロは3節から5節で4つの恵み、4重の恵みを指摘した。1つは、新しく生まれさせてくださった恵み。2つは、復活の望みに生きる希望の恵み。3つは、天に蓄えてある「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」。4つは、「信仰者として守られる」という4つの恵みです。ここで語られているのは救いの恵みをいただいた喜びです。
キリスト者の生活は「喜びの生活」です。普通、人は食べたり飲んだりすることの中に、お金が儲かったとか出世したことの中に喜びを見いだす。しかし、キリスト者はキリストと結ばれ、神の子としていただくことに喜びを見いだす。これが救われた喜びです。私たちは洗礼を受けています。洗礼を受けることは、神のものとされたことのしるしです。洗礼は、神があなたを愛し、あなたを選んでいることの神の側での証しです。このしるしによって、新しく生まれたこと、復活の望みと天にある資産とが約束されているのです。ここに喜びがあることを確認し噛みしめて歩むことです。
ペトロは、この救いの恵みに続いて、もう一つ喜びの源泉を指摘します。「試練」です。ここにキリストを信じる者の信仰の在り方があります。あなたの信仰はどういう信仰かということです。ある方から「人生、信仰を持ったらうまく行くのと違いますか」と言われたことがある。信仰を持ったら、自信がついて何でもうまく行くものだと考えるかもしれません。信仰を自己開発能力のように考える方もいる。可能性思考です。決してそれだけのものではない。信じたらすべてがうまくいく、バラ色になるようなものではない。また、別の方から言われた。「信仰を持ったんですが、どうしてこんなに苦しむことが出て来るんでしょうか」と。その方の配偶者が若くして病気でなくなってしまったのです。そこで私は尋ねた。「それでは信仰をやめますか」と。その方はしばらく考えていましたが、「いや、やめません」とおっしゃいました。信仰は、人生がうまくいくから信じるんだとか、苦しいからやめるんだというものではない。
ペトロは極めて厳しい現実、苦難を私たちに示しています。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」と。ここに記されているのは外から迫ってくる苦難です。人生の旅路の中で、生きていく上での苦しみ、悲しみです。家族による苦しみ、仕事の上での苦しみ、キリスト者として生きていく時に受ける中傷、憎しみ、迫害に悩まされます。私たちは信仰を持って、いろいろな試練と苦しみを抱えていくのです。
ペトロはこの試練を乗り越えると、そこに喜びがあると語る。「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらす」と語ります。さらに「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と語ります。ここに語られている喜びは試練を乗り越えた喜び、神の与えた課題に合格した天における喜びです。
ペトロは、先ず、この試練は「今、しばらくの間」と言います。試練や苦しみがどれほど激しくても、その期間は短い。必要以上に長くなることはない。しばらくの間に過ぎません。渦中にある人にとっては、我慢できないほどの長さ、永遠に続くと思うような時もある。しかし、振り返って見ると、ほんの僅かの期間であったことが分かります。
次に、ペトロは試練や苦しみは目的を持っていると記します。信仰の訓練です。「悩まねばならないかもしれません」を、ある英語の翻訳では「もし、必要ならば悩まねばなりません」と訳している。試練が必要かどうかを決めるのは神です。神が私たちをご覧になって訓練しテストする。神が必要と認めるならば、必要な訓練が与えられる。神が人を選んで主のご用のために用いられます。その時、その人を試し鍛えられます。どんな人にも罪があり、そのままでは神のみ業には用いられない。そこで、神は私たちの信仰を訓練しテストされます。私たちが出会う試練や苦しみは信仰者として生きるために必要な訓練、テストとして神が認めておられるのです。
ペトロは「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と記す。宗教改革者カルヴァンは「金は2度、火で試される」と記します。初めは鉱物の中から金が吹き分けられる。分離です。しかし、そのままでは金として用いることは出来ません。その純度を高めるためにさらに火の中に入れられて純金だけが取り出されます。試練の炉の中で、私たちの信仰は精錬され、鍛えられて、まことの信仰として整えられるのです。神は私たちの信仰を真実なもの、鍛えられた信仰とするため試練を与えられるのです。
試練と苦しみを経て、私たちの信仰は「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。本物と認められるのです。本物の信仰とは、なによりもキリストを信じる信仰です。キリストを信じるとは、キリストに信頼することです。キリスト以外には何ものにも信頼しないことです。語ることは簡単ですが、実際にはたいへん難しい、厳しいことです。何か困ったことが起こったら、自分の力で解決しようと考えてしまう。これが不信仰です。このような不信仰が試練の中で明らかにされ除かれていく。そして、私たちの生涯を通して信仰が鍛えられていきます。キリストだけを信頼して生きる者へと造り変えられていくのです。
人生の苦しみによって鍛えられた信仰は、主イエスが再び来られる時に、「称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。これが信仰者の喜びの源泉です。神は私たちの信仰の忍耐と働きを見て評価してくださいます。これを喜ぶのです。終わりの時に、主イエスが評価してくださるのは、キリストへの信頼の歩みです。立派な大事業をしたかどうかではない。信仰者として本当にキリストだけに信頼して生きたか、どうかが問われるのです。