2017年2月26日
聖書=Ⅰペトロの手紙1章22節
深く愛し合いなさい
私たちは礼拝の時、感謝の献げものをします。具体的には「献金」ですが、実は献金において自分自身を献げているのです。自分のすべての生活を献げているのです。言い換えれば、献金の時に、自分をまったく神に従わせます。あなたのご用のために用いてくださいという祈りをしているのです。私たちの信仰生活は、この礼拝から始まっていくのです。
ペトロは「あなたがたは」と言います。キリストの尊い血によって贖われた「あなたがた」です。信仰の生活とは、神の子としていただいた者の生活、生き方なのです。神の子としての私たちは、どう生きるのか。ペトロは「こう生きなさい」と勧めているのです。キリストの贖いを受け止めて、神を父と呼ぶことの出来るものとされた。このことを受け止めての勧めの言葉です。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。大きく2つのことが勧められています。1つは「真理を受け入れて、魂を清め」ること。2つは「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合う」ことです。
第1は、「真理を受け入れて、魂を清める」ことで、個人的な信仰の成長の勧めです。「真理を受け入れる」とは、キリスト教の真理を学ぶ、あるいは学問するということとは違うことです。聖書を学ぶ、勉強する、こういう言葉を私自身も使います。しかし、注意しなければならない言葉だと思っています。ある学問を修めたとか学び終えたという場合、「マスターした」と言います。マスターは修士という意味もありますが、「主人となった」という意味がある。英語をマスターしたとは、英語の支配者になったということです。ある学問を修めて修了し主人になったということです。
しかし、福音の真理を学んでマスターすること、支配すること、達人になることはできないのです。「受け入れる」と訳された言葉は、「従う、服従」と訳される言葉です。「真理への服従の内に、あなたの魂を清めること」です。ある翻訳者は「真理に降伏する」と訳しています。信仰者として成長していくためには、福音の真理に頭をたれて服従していくことです。自分で勝手にあれこれ勉強してキリスト教の真理を自分のものにしてしまおうというのではない。福音の真理に頭を下げて支配されることです。
そこで「魂が清められる」のです。「清める」とは、神への捧げものとして清めるということです。「魂」は、人間の一部分ではなく、心と魂と体を含む人間全体が意味されています。「清める」とは、禁欲的な生活や個人的な道徳の向上ではありません。神に向かう態度のことです。神のご用に用いられるために、聖霊の働きによって清めていただくことを願い求めることです。福音の真理に捕らえられたところで、私たちは神のものとされる。そこで、聖霊が私たちの身も心もふさわしく清めてくださり、神のご用に役立つものとされるのです。私たちが福音の真理をマスターしようと思い上がるのではなく、福音の真理に頭をたれて従っていくところで、心も魂も体も清められて、神に用いられるものとなるのです。
2つ目の勧めは、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合う」ことです。信仰と生活の証しとしての兄弟愛の勧めです。信仰の生活は一人ではできません。信仰の基本は礼拝において示されます。「二人、三人、わたしの名によって集まるところにわたしもいる」と主イエスは言われました。礼拝そのものが共同体を表しています。注意することは、あなたがたはすでに「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」ことです。今から兄弟愛を獲得するのではない。すでに「兄弟愛を抱くようになっている」。「偽りのない」とは偽善ではないことです。ファリサイ派の表面だけを飾った内と外とが違うような愛ではないことです。
ペトロは、私たちの愛をどこから始めるのかを見ています。愛は、口先だけではありません。愛はすばらしいだけに、実は多くの問題と課題とを含んでいます。注意しないと兄弟愛が相手を傷つけてしまうことも起こる。教会の外でも兄弟愛をもって隣人に仕えることができるために、先ずここから始めていく。隣人をどのように愛することが、偽りのない、真実のものであるかを、教会の交わりの中で学ぶのです。教会の外にも広がる兄弟愛を学び、教えられるところが教会の交わりです。互いのためを覚えて熱心に祈り合う、互いに支え合って教会の交わりに生きてまいりたい。
「兄弟愛」と訳された言葉は「フィラデルフィア」です。他者との関係において成立する愛なのです。神の家族としての信徒相互の愛を指しますが、さらに広い隣人愛への方向性を持つ言葉です。主イエスは律法の専門家に「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた。すると律法の専門家は「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねた。主イエスは有名な「よきサマリア人」の物語をお語りになり、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。ここに「深く愛し合う」姿が明示されています。
私が浜松教会に赴任して感謝していることは、教会内にディアコニア室が出来ていて、東北の支援に取り組んでいてくれたことでした。自主的によく奉仕していてくださることを感謝しています。これからの私たちの教会がこの地で伝道していくために欠くことが出来ない視座がディアコニアであると思っています。これがこの地で教会が根付き、成長していくための奉仕の業であると考えています。ペトロは、あなたがたは愛し合う力を持っていると語ります。この愛し合う力をますます展開していくのです。「深く愛し合いなさい」の「深く」と訳された言葉は「手足を伸ばす」という意味を持っています。「ストレッチ」という言葉を思い起こしていただければと思います。実際に手足を伸ばして、主イエスによって教えられた者として、主イエスから愛された者として、手足を精一杯に伸ばして、主イエスのなさった愛の奉仕の業を私たちも引き受けていくのです。