2017年3月12日
聖書=Ⅰペトロの手紙2章1-3節
霊の乳を慕い求めなさい
この上記の説教題は、今年2017年の浜松教会の年間標語です。伝道開始50周年に当たって基本に戻りたいと願ってのものです。教会は神の言葉に拠って立ちます。教会の土台は神の言葉です。信徒の生活も神の言葉に養われます。赤ちゃんが母乳に頼って生きるように、神によって生まれた私たちは神の言葉である霊の乳を飲んで生きるのです。
ペトロは「だから」と記します。ある理由、根拠があって語る言葉です。ペトロは繰り返し「あなたがたは」と記します。キリストの救いの恵みを味わっているあなたがたです。キリストを信じて、主の恵み深いことを味わっている人のことです。主イエスは神の国の祝福を食卓、祝宴のイメージで語られました。キリストを信じることは、おいしい食べ物を食べるのに似た心地よい思いを味わうことです。旧約の詩人は、神の言葉は「口に甘い」と歌いました。本当に神の言葉、キリストの恵みはおいしいのです。このキリストの恵みをあなたがたは味わっているのだ。
「だから」とペトロは記す。だから、成長するのです。赤ちゃんが成長するように、信仰生活も成長するものです。子どもは目に見えて成長する。ところが信仰的、霊的な成長は目に見えません。これだけ成長しているとグラフみたいに表すことができません。しかし、霊的に誕生した者は成長して行かねばならないのです。ペトロは、ここで信仰生活の成長の秘訣を2つ記しています。1つは捨てること、2つは霊の乳を慕い求めて飲むことです。この2つが霊的成長の秘訣であり、また義務なのです。
霊的成長の1つの道が捨てることです。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことです。「捨て去る」と、断固たる決断が求められています。しかし、「捨て去る」ことくらい難しいことはありません。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」。この1つ1つの悪徳を解説する必要はない。普通に、字義通りに受け取っていい言葉です。すべて隣人に対する私たちの悪しき思い、悪しき行為です。私は全くこれらに無関係と言うことの出来る人はいないでしょう。キリスト者になってからも捨てきれません。むしろ、何らかの意味で快感さえ味わうのではないか。人を騙したり、妬みを言ったり、悪口を言う時の問題点はそこにあります。
このような快感と向かい合わなければなりません。キリストの恵みの味を知ったのですから、肉の欲望に生きる快感は捨てなければならない。ヤコブは言います。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。神を賛美する喜びの味を知っている舌が、人を呪う苦い言葉を語り得るはずがない。恵みの味を知っている人間が、どうして悪口を言うことができるか。捨て去りなさいと言われているのです。聖霊に導かれて、祈りつつ、これらの悪しき思いと行為を断捨離することが求められているのです。
ペトロのもう1つの命令が「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」です。「混じりけのない」とは、異物が混入していないということです。私たちの周囲の食物にいろいろな添加物が混入していて、何が本物か分かりにくい時代になっています。そのために混じりけのないものが貴重になっています。けれど、本物が分からない人は混ぜものをしたもののがおいしいと感じてしまうことが起こる。
「霊の乳」においても純粋の霊の乳よりも、口当たりをよくするために何か混ぜた方が口に合う。いつの時代でも、福音宣教は人の口に合うように何かの混ぜものをすることとの対決においてなされてきました。「霊の乳」とは、何を指しているのか。「霊の」と訳された言葉は「ロゴス」です。「み言葉の乳」と訳せます。神の言葉である聖書によって私たちの信仰は養われます。赤ちゃんが毎日、お母さんの乳を飲んで成長するように、私たちは毎日、神の言葉によって養われていくのです。毎日、聖書を少しずつでも読んでください。聖書によって私たちの考え方や、生活が整えられていくのです。毎日、聖書を読む習慣を身に着けていただきたい。
さらに「霊の」、「み言葉の」と訳された言葉は、カトリック伝統のラテン語翻訳では「理性的な」と訳しています。間違いではない、むしろすばらしい訳し方です。ロゴスは、「言葉」とも「理性」とも訳せます。理性的と言うと理屈っぽいことを思い浮かべるかもしれませんが、「筋道が通っている」ことです。筋道が通っている真理の乳とは正しい教理ということです。「混じりけのない」という言葉はここにこそかかってくると言える。聖書の福音に何か添加物をしたり、引き抜いたりしない正しい教理です。
「霊の乳」を、「み言葉の乳」と訳しても、「理性的な筋道の通った乳」と訳しても、それぞれ意味のある理解です。その指し示すところは、キリストそのものです。主イエス・キリスト御自身こそ、私たちを養う霊の乳なのです。イエス・キリストを求めよう、キリストの恵みを慕い求めなさいと言う、はっきりした命令なのです。「慕い求める」と訳されている言葉は、強烈な熱望、渇望です。異性を慕うような、あるいは「鹿が谷川の水を慕い求める」ような生命的な渇望です。これを求めておいたら、損をしないだろうというような打算的な求め方ではありません。
最近は、ひもじいという感覚が分からなくなっています。飢え死にしそうだという感覚が乏しくなっている。敗戦直後の時代を生きてきた私は、ひもじいという感覚がよく分かります。失ってはならない欠乏の感覚です。「慕い求める」とはひもじさの表現です。幼児は眠っていてもお腹が空くと口を動かし母親にすがりつきます。本能的、生命的な慕い求めです。キリスト者にも、この霊的なひもじさ感覚が求められているのです。霊的な命があるならば、求めずにはおれない霊の乳です。霊的な命は、キリストの恵みの言葉、霊の乳以外のもので養われることは出来ないのです。