2017年3月19日
聖書=Ⅰペトロの手紙2章4-6節
生きた石
今日は、「石」について、しかも「捨てられた石」についてお話しします。20年ほど昔になります。イスラエルに行きました。行くところ、すべてが石で出来ています。建物も道路も石、城壁も石、石ばかりでできています。日本人の目から見たら不思議な光景です。エルサレムストーンと言われる乳白色の石です。民家の構造はまことに不思議です。石の建物が崩れたら、その石の上にまた石を重ねて建物を造っていきます。イスラエルでは「石」は最も重要な建築資材なのです。
ペトロは、先ず記します。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。イエス・キリストを石に例えています。では、どういう石であったのか。城壁の基盤になるような石だったか。心を奪われてしまうような美しい石だったのか。ペトロは「人々からは見捨てられた」石と記します。7節で詩編118編を引用して「家を建てる者の捨てた石」と記す。家を建てる時に建築家が「この石は駄目だ」と捨てた。漫然と見過ごしたのではない。役立つかどうか吟味した上で、これは駄目だと言って見捨てた石というのです。
ところが神は、この見捨てられた石をお用いになられた。救いのご計画の中で土台石としてお用いになった。人間の建築家が役に立たないと捨てたものが、神の用いるものとなった。これが「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。主イエスご自身がこのことをはっきり自覚していました。マタイ福音書21章で、主イエスは例え話を語られた。ある人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た。収穫の季が来たので、僕たちに収穫の分け前を受け取りに行かせた。すると農夫たちは僕たちを袋叩きにし殺してしまった。最後に一人息子を遣わした。農夫たちは、これは跡取りだから殺してしまえばいいと言って、その跡取り息子を殺してしまった。
主イエスはこの例え話に付け加える形で、詩編118編から「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」と言われた。主イエスご自身がご自分を捨てられた石に例えている。人々に捨てられ、十字架につけられ殺されてしまう。主イエスは殺された跡取り息子、捨てられた石です。
しかし、主イエスは自分こそ神の家の「隅の親石」になると言われた。それがペトロの語る「「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」です。「隅の親石」とは単なる土台石ではない。四隅の土台がある。その中で最も基準になる石、キーストーン。隅の親石から四隅を確定していく。隅の親石は建物全体の基盤・基準なのです。この大切な石を、イスラエルの民は捨ててしまった。軽蔑して捨てた。自分たちの好みに合わなかった。自分たちの求めている救いには合わない、不適格として捨ててしまった。自分の好みに合う救いを求めている限り、キリストを不適格として捨ててしまう。今日もキリストは捨てられ続けています。
けれど神は、この捨てられた石であるキリストを選んでまことの救い主、「隅の親石」としてくださった。「尊い」とは、これ以外にはない貴重なものということです。普通の石には命はないが、生きた石、キリストには命があります。キリストは生きているお方です。復活の命、信じる者を生かす命がここにあります。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。命の源、命そのものです。神はこの生きた石であるキリストによる救いの道を確立してくださったのです。
次に、ペトロは「この主のもとに来なさい」と呼びかけています。このキリストのもとに来るなら、あなたがたも生きた石になると語るのです。これは信仰への呼びかけです。「キリストを信じなさい」と。多くの人から見捨てられたが、本当の救い主はイエス・キリストだけです。このお方が私たちの罪を担って十字架で罪の償いをしてくださった。罪のないお方であるキリストだけが罪を償うことのできるお方です。このキリストのところに来て、キリストを信じて救いを得るのです。
キリストのもとに来て、あなたがたも生きた石になる。この隅の親石であるキリストの上に、私たちも命を持った生きた石として組み込まれて建てられるのです。教会の交わりの中に組み込まれるということです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と記します。ペトロは、キリストを信じることは教会に結ばれることだと語っているのです。キリストに結ばれる時、私たちにも命が与えられてキリストと同じように「生きた石」になるのです。
私たち一人ひとりキリストに結ばれて生きた石になっています。大きい石もある。小さな石もある。形のいい石もある。あまり見栄えのしない石もあるかもしれない。しかし、キリストが選んでくださった石です。キリストは、これらのすべての石を用いて神の家である教会を建てられます。いらない不要な石は1つもありません。神の家のどこかに必要なのです。私たち一人ひとり、1つの石となって神の家を建て上げるのです。
ペトロは「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と記します。私たちは受け身なのです。霊的な神の家を建て上げてくださるのは、この家の主であるキリストです。キリストが家の主人として、私たちを生きた石として用いてくださり、私たちを組み合わせて、神の家としての教会を建て上げてくださいます。私たちを石として用いられるのはキリストです。キリストが、「あなたをこのように用いますよ」、と言われる時、素直に「ハイ」と言って用いていただけるようにしなければならない。神の家の家造りであるキリストが示されるところで、私たちは用いられていくのです。新しい信徒も、古くからの信徒も、教会という霊的建造物を構成する大切な石です。これが信徒の交わりとしての教会なのです。これが「生きた石となる」ことです。