2017年4月9日
聖書=ヨハネ福音書19章28-37節
実現された神の言葉
今日は「受難週」の賛美礼拝です。主イエス・キリストの十字架の苦難に焦点を絞って聖書を朗読し、関わりのある賛美歌を歌ってまいりました。そのため説教は短めにさせていただきます。あるポイントに集中させていただきます。それは「実現された」という言葉です。「テレイオー」という言葉ですが、徹底的に完遂された、成就したという意味の言葉です。
今年はヨハネ福音書から受難の箇所を朗読していただきました。ヨハネ福音書は、主イエスの十字架において旧約聖書の言葉の成就を見ています。旧約で語られていたことが、主イエスの十字架で実現していると記しているのです。主イエスが十字架につけられた時に、その時になされた1つひとつの出来事が旧約の言葉との関わりで記されているのです。
十字架の下で、ローマの兵士たちが主イエスの服をくじ引きで分け合ったということ、十字架につけられた主が「わたしは乾く」と言われたこと、槍で脇腹が刺されたこと、足の骨が折られなかったことなどが旧約聖書の言葉と関連づけられて記されています。
明確に「…聖書の言葉が実現するため」とか、「…実現した」と記されている場合もあれば、さらっと記されている場合もあります。しかし、注意して読むと、この個所は旧約の引用だなと気づきます。あるいは旧約の言葉を意識しているなあと分かるように記されています。このように旧約の言葉が引用されたり、意識されているのは、なぜでしょうか。
それは主イエスの十字架の死が決して突然のものではなく、神によって予定され、計画され、長い間準備されてきたことだということです。そして、そのことが、この主イエスの十字架で実現しているのだということを主張したいのです。主イエスの十字架の死で、旧約に語られてきた神の言葉は実現したのだと語りたいのです。
しかし、主イエスの十字架において「実現されたこと」、「完遂されたこと」は、そのような表面的な出来事だけのことではありません。もっと大事なことがある。十字架の内容そのものです。以前の讃美歌第1編の262番(21/300)では、「十字架のもとぞ いとやすけき、神の義と愛のあえるところ」と歌います。キリストの十字架の意味をしっかりと歌いあげている文言です。十字架は、神の義と神の愛の交差するところということです。この貴重な文言が、「讃美歌21」から消されてしまったことはたいへん残念なことです。
十字架において実現されたことの最も大切なことは、神の義が貫徹したことです。神の義が貫かれたということです。神は、犯された罪に対して、これを裁くことをなされないでは、神は神ではありません。神は聖であり、義であります。アダムの時以来、罪を犯した魂は必ず死ぬことが定めでした。しかし、神は罪を犯した人の裁きを引き延ばし、耐え忍んでこられました。あえて申し上げます。神が神であることが長い間貫かれないできたと言っていいでしょう。
しかし、今、主イエスにおいて、神は犯された全人類の罪を処断されたのです。人となられたイエスを徹底的に見捨てることによって、罪を呪い、徹底的に罪を罪として裁かれたのです。それが、主イエスの語られた「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)という言葉が示すことです。
主イエスは、罪なきお方であるにもかかわらず、罪人として、罪人の代表として、全人類の罪に対する神の怒りと裁きとを一身に担っておられるのです。神の怒りの杯を飲み干しておられるのです。これによって、神が神となられたと言ってよい。神の正義が貫かれたのです。神の義が実現した。主イエスの十字架において神の義が完遂されたのです。
同時にしかし、この十字架において実現したことは、罪人に対する神の愛が貫徹したのです。時折、旧約の神は義なる神であり、新約の神は愛の神だと言われる方がおられます。大きな間違いです。旧約の神も完璧に愛の神なのです。聖書の神は義にして愛の神なのです。
天と地の創造から、神は愛であることを示されています。神は人をご自身の形に似せて人格を持つ者として造られ、人格を持つ者同士の交わりの関係に入られました。ここに愛が示されています。創造の最初から神は愛の神なのです。人が罪を犯しても、神は罪人の滅びを喜ばれません。神はなお罪人を愛し、忍耐し、「あなたはどこにいるのか」と捜し求め、神との交わりに回復してくださる愛の神なのです。
罪は裁かれねばなりません。しかし、罪人を滅ぼし、死なせてしまってはならない。罪人を生かし救い出さねばならない。赦して、もう一度交わりの中に回復させねばならない。罪を罪として裁き、同時に罪人を死と滅びから救い出すことは、不可能な道と言っていいでしょう。しかし、この不可能な道を、義にして同時に愛である神が開いてくださったのです。
それが、神の御子を人とならせて、主イエス・キリストを十字架につけるという離れ業でした。代償的贖罪、神の御子による代理の償いです。神の御子であるお方、罪のないただ一人のお方を十字架で裁くことによって、罪人を愛する神の愛が貫かれたのです。主イエスの十字架において、罪人を愛して救う神の愛が完遂されたのです。
主イエスの十字架の出来事は、神の義と愛の交差するところです。この深い意味を明らかにする言葉「実現した」という言葉は、義と愛が「完了した」、「成就した」ということです。主イエスご自身が「成し遂げられた」と言われて息を引き取られました。主イエス・キリストは、この救い主としてのみ業、神の義を貫き、神の愛を完遂してくださった。これが主イエスの十字架の意味なのです。この十字架の主を、「我が主、我が神」として信じ受け入れるところに、私たちのまことの救いがあるのです。