2017年5月7日
聖書=Ⅰペトロの手紙2章13-17節
市民として生きる道
今日、キリスト者として生きることと、国との関わりが難しい時代になっています。私たちはこの国の中でどのように生きていくことが求められているのか。ペトロはまず「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と勧めている。「制度」(クティセイ)という言葉は、神の創造、被造物を意味しています。神は人を社会的な一定の秩序の中で生活するように造られました。混乱と無秩序の中ではなく、ある一定の秩序の中で生きるようにされた。それが「制度」という言葉で語られている。これは神が三位一体ということと深く関わりがあると考えています。唯一の神の中に父・子・聖霊の三位格が完全な秩序をもっておられます。ここから神の形に造られた人を秩序を持つものとして、この世界に置かれたのです。
「人間の立てた制度」という言葉で、この世の制度はどんな制度であれ神とは関係なく、人間が考え出し、造りだしたものに過ぎない。だから、制度などには従う必要はないと考える人もいる。確かに制度の内容は人間が、その時代、その社会状況の中で造り上げていくものですが、制度そのものは人が秩序ある生活をするために、神から与えられたものです。
ペトロは、その制度に「従いなさい」と命じる。これが勧めの基調、基本です。「統治者としての皇帝であろうと、あるいは悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」と。従うとか、服従というと、非人格的な従属関係を意味しがちですが、聖書では「従う」ことは愛の表現の1つです。3章1節に「自分の夫に従いなさい」と記されている。夫婦の愛情表現の1つが「従う」です。ペトロは、キリスト者に非人格的、奴隷的な服従を命じているのではなく、キリスト者の隣人愛の行為、隣人愛の1つとして皇帝や総督に従うことを勧めているのです。このことは、どのような政治形態のもとにあっても、政治的な権力者、為政者、公務を行う者に対して求められているのです。
なぜか。理由があります。「主のため」です。「主のゆえに」と訳せます。主イエス御自身も、この地上を歩まれた時、カヤパやヘロデ、総督ピラトに服従されました。この世の税を納めました。この主イエスに従うのです。ペトロは、苦しみを受けられた主イエスを示して、この主イエスに従うように「人の立てた制度」と「この世の統治者たち」に従うことを命じているのです。私たちも、罵られ、悔しい思いをさせられる時がある。けれど、ペトロは2章21節で「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と記します。主イエス御自身がその生涯において、十字架において、罵られても罵り返さず、侮辱されても侮辱をもって報いませんでした。このキリストの足跡に従っていくのです。
しかし、実はここから最も大切なことをお話ししなければなりません。「主のために」、「主のゆえに」従うとは、決して無条件的、絶対的な服従ではないことです。キリスト者の服従は、主のために従う、主のゆえに従うのであって、自分の利益のためではありません。この世の権威が、神とキリストに従うことを禁じたり、不当・不法、理不尽なことを命じる時には、それに従うことはできない、ということです。この世の権威に従うのは、キリストに従うためであることをはっきりさせておくことです。
キリスト者が国家秩序へ従うことは神への服従の一部であると理解して、これに従わなければならない。決して反権力ではありません。自分の好悪にかかわらず、「税を納めるべき者には税を納める」のです。神に従う者として、これに従うのです。そして、これを根拠にして、ここからキリスト者の「抵抗権」が生じるのです。聖書が示す抵抗の在り方は、手前勝手な人間の自由や反権力に基づくのではなく、深く信仰的な在り方なのです。
抵抗権という言葉は日本の教会では、まだ根付いていない言葉です。戦前の日本の教会ではほとんど紹介されませんでした。抵抗権は不服従という言葉でも言われます。抵抗権、あるいは不服従ということが理解できないと、欧米の近代の歴史が本当には分からないのではないか。何故、イングランドやスコットランドのピューリタンが国王に抵抗して新大陸に渡ったのか。近代の歴史の背後には抵抗権、不服従の理解があるのです。これが、戦前の日本の教会では正しく教えられてこなかったのです。
日本では「抵抗権」の思想がまだ未成熟です。抵抗権は、キリスト教信仰を背景とし基本的人権についての理解が求められます。その理解が乏しいところでは「お上にたてつく者」、「風変わりな者」ということで終わってしまう。日本における福音宣教の持つ意味は、宣教が人を救う伝道であると共に、国家の在り方と人が人として生きる道とを指し示す働きでもあることを自覚してまいりたい。主イエスは、マタイ福音書22章21節で言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。また、この手紙の著者であるペトロ自身が使徒言行録5章29節で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と語っています。
抵抗権は宗教改革によって明確にされた聖書的な主張です。しかし、宗教改革によって新しく発見された教理ではなく、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」という古くからの聖書の教えの再確認です。抵抗権の主張は、この世の権威者に対する抵抗に主体があるのではなく、神への服従に主眼があります。上に立つ権威者が神の言葉に反することを命じる時に、神の言葉と神を礼拝する良心が抵抗することを人の心の中に語りかけるのです。ここに基本的人権としての抵抗権の基礎があります。基本的には神に造られたすべての人が基本的な人権として抵抗権を持っていると言ってよい。社会的、国家的な状況の中で、神の言葉への服従が拒否され、信仰的良心が否定されるような場合が起こります。その時には、キリスト者と教会はこの世の権威に対して、「否」と言わねばならないのです。