2017年5月21日礼拝説教 「雲の柱・火の柱」

2017年5月21日

聖書=出エジプト記12章17-22節

雲の柱・火の柱

 

 私たちの教会は1967年4月16日、中部中会の開拓伝道によって始まった。それから50年、半世紀が経た。しかし、まだ教会政治の上では「伝道所」です。この数年で教会としての勢いが感じられるようになったが、ここに至るまでに半世紀かかった。何故だ、という思いがある。冷静に歴史を振り返って反省し、今後に生かしていくことが大切なことです。

 私たちの教会が置かれている状況は、聖書の歴史に置き換えてみると、カナン入国直前のイスラエルと言っていいだろう。出エジプトをした。しかし、すぐにカナンの地に入ることができず、40年の荒れ野の歩みを経て、今ようやく、ヨルダン川を目の前にしている状況ではないか。出エジプトと荒れ野の40年を導いてきたモーセも年老いて、ヨルダン川を渡れない。ヨルダン渡河を導くのは新しい指導者です。イスラエルの民は新しい指導者ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡らねばならないのです。

 「浜松教会50周年記念誌」を、編集委員の兄姉たちと一緒に編集作業をしながら考えた。50年の歩みは、一体何だったのか。なぜ、道草とも言えるような長い時を必要としたのだろうか。しかし、これは決して道草ではない。これが神の導きであった、と受け止め直した。ここに、私たちの群れに対する神の御心があったのだと受け止めました。

 「ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった」。出エジプトした民を導いたのは「雲の柱、火の柱」でした。「雲の柱、火の柱」は神の臨在のしるしです。イスラエルの民は決して自分勝手に道を歩み出したのではない。最初から神に導かれていた。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」。民は主の導きの下に歩み出した。「雲の柱、火の柱」が進むと進み、止まると止まった。

 この時代、エジプトからカナンに向かう道は大きく3つあった。1つは、地中海の沿岸に沿ったペリシテの道。2つは、エジプトからシュルの荒れ野を通ってカデシバルネアに至るシュルの道。3つが、エジプトからアカバ湾の北端エツオン・ゲベルに至り、死海へと上っていく隊商の道です。ペリシテ街道は最短の道ですが、神はこの最短の道に導かれなかっただけでなく、これら3つの道のどれにも導かなかった。

 「火の柱、雲の柱」が導いた道は大きく迂回する道でした。カナンから離れていく方向へと導かれた。神は、カナンから逆方向の道、シナイの荒れ野に進む南方へと導いた。イスラエルの人々はいぶかしく思ったろう。カナンに帰るはずなのに反対方向に導かれていく。その行く手は荒れ野と砂漠です。これから自分たちはどうなるのか。どうして食べていくのか。どうして生きていくのか。少人数であれば、何とかなるかもしれない。出エジプトの実際の人数は数千人から1万人程度と言われている。それでも数千人が砂漠で生活することは困難です。しかし「火の柱、雲の柱」は荒れ野に導いていく。自分たちはどこに導かれるのか分からなかった。

 けれど、神は何の計画もなしに彼らを荒れ野に導いたのではなかった。エジプトから持参した食料が尽きた時、神はマナをもって40年の間、民を養われた。神はイスラエルの民の先々にきちんと用意をして備えていてくださった。私たちには一寸先も分からない。しかし、神に従っていく時、そこには神の用意、神の備えがなされている。神は歴史を支配し、導かれるお方です。先回りして備えしておられるお方です。後に、荒れ野の40年を回顧して申命記の著者はこう記しています。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)。

 カトリック教会のある神父さんが書いた本の表題に「神は直線を描かない」とありました。いい言葉だなあと思っています。神は、A地点からB地点に行く時、定規で線を引いたような直線の道に導かない。神の導きは曲線を描くと言っていい。回り道、迂回路を歩ませる。道草にも思える道の途中で、イスラエルの民は大切な経験をしたのです。

 それはシナイ山でのイスラエルの民と神との出会いの体験でした。シナイで、神と契約を結び、十戒が与えられ、神の民としての結合がなされた。エジプト滞在中、人々はアブラハム・イサク・ヤコブの家としての家族共同体でした。しかし、シナイ山で、イスラエル12部族として神と契約を結んだ民族共同体、契約共同体へと大きく変貌を遂げた。どれだけ強調しても強調しすぎることはありません。神と契約を結んだ神の民イスラエルの誕生です。これこそ神が回り道をさせた理由と言っていいでしょう。

 もう1つの理由がある。エジプト的なものを除き去ることです。聖化と言ってもいい。出エジプトした民は、困難になるとすぐに「エジプトでは肉があった」と言ってエジプトの肉鍋を恋うて奴隷に戻ろうとする悲しい性がありました。荒れ野の40年を通して、このエジプトに戻るという思いが精算された。エジプトの記憶が断たれ、前進する以外ない新しい世代が生まれたのです。このために、神は長い時をかけたのです。

 イスラエルの民を導いた雲の柱、火の柱とは何か。神の臨在のしるしです。今日では神のみ言葉です。神のみ言葉が導くままに彼らは歩んだ。最も困難な道を歩まされた。しかし、これが神が導かれた最善の道でした。私たちが求められているのはみ言葉に対する信頼と服従です。御言葉が命じたら1歩を踏み出すこと。神が進みなさいと言われたら、信頼して1歩を踏み出すことです。荒れ野に導かれる主に従うのです。み言葉が止まることを命じたら、静かに止まることです。神が示してくださるところにマナの用意があります。主は備えしていてくださるお方です。神の用意がある。神に信頼して信仰の歩みを続けたい。キリストを信じる者には希望がある。神が働いて、私たちのために最善の備えしてくださり、神の国の民として完成に導いてくださるという希望です。これが教会の希望です。