2017年6月11日礼拝説教 「 主イエスに倣う人生 」

2017年6月11日

聖書=Ⅰペトロの手紙2章18-21節

 主イエスに倣う人生

 

 ペトロは、ここから社会的な立場に応じての信仰生活の在り方を記していく。最初が奴隷の立場にある者への勧めです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。「召使い」は「オイケタイ」で、英語では「ハウス・サーバント」と訳している。奴隷ですが家の中で奉仕する者たちです。

 当時、ローマ帝国には6千万人の奴隷がいた。そんなに奴隷が多かったのは、ローマ帝国が次々に戦争をし、次々に勝利していたからです。戦争の度に敗戦国の捕虜や国民をローマに連れて来て奴隷として使った。ローマ帝国はこのような奴隷によって経済が成り立っていて、ローマ人の貴族や自由民は自分では仕事などしません。家事や生産活動は奴隷にさせていた。戦争の捕虜ですから、元は軍人、医者、音楽家、教師、技術者、貴族などがいた。戦争にさえ負けなければ、ひとかどの人物として通った人たちでした。ローマ人の主人以上の教養と技術を持った人も多くいた。

 主人の中には「善良で寛大な」人もいた。奴隷になった事情を知って寛大に取り扱い、能力を認めて多くを委ねてくれる主人もいた。しかし、戦勝者としておごり高ぶり、奴隷を「無慈悲に」取り扱う主人もいた。奴隷とされた者は、生きているのも嫌になったろう。人生に絶望し、たまらないこともあったろう。ペトロは、このような奴隷・召使いの思いが分からないのではない。十分に分かっている。実は、キリスト者の信仰生活の中心は、他人に、隣人に仕えることにあります。そして、仕えるとは相手によらないのです。物わかりのいい、親切な人だから仕えるのではない。嫌な人、分からず屋の人であっても仕える。ペトロは「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と勧めるのです。

 さらに、ペトロは「心からおそれ敬って…」と記す。直訳すれば「あらゆる、すべての畏れをもって」となる。つまらん。不当だ、人生絶望だ、と言う投げやりな気持ちではない。「おそれ敬って」とは、人の目を恐れる恐れではなく、神に対する畏れです。恐怖による服従ではない。へつらいやうわべだけの見せかけの服従ではない。神への畏れをもってキリストに仕えるように仕えるのです。「神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶ」のです。

 神を意識して苦痛を耐え忍ぶことです。私たちは自分の前に神が立っておられることを忘れてしまう。神を畏れるとは、神の御前に立つ意識です。神を意識して、そうだ、神が今、私をここに置きたもう、と受け止めるのです。今、自分がここに置かれていることに神のみ旨を認めて、神に従って生きるのです。このことが神の御心に適うことなのです。

 旧約聖書のヨセフを思い起こしていただきたい。ヨセフは今、エジプトに奴隷としている。これはまことに不当なことです。戦争ではないが、実の兄弟によって売り払われた。その結果、奴隷にされた。さらに不当なことが繰り返されて、投獄されてしまった。当たり前なら、つぶやき、恨み、呪わずにおれない。しかし、その状況の中で、ヨセフは神の臨在を認め、神の摂理を信じて、神への服従として忍び受け入れました。これがヨセフの人生でした。これが私たちキリスト者の生き方なのです。

 ペトロは「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と記します。不当な苦しみを受けるのは、当時の奴隷だけではありません。私たちがこの世において旅人、仮住まいの者として歩む時、必ず不当な苦しみを受ける。その不当な苦しみを忍耐強く耐え忍ぶようにと、私たちは召されているのです。不当な苦しみであると思っても、それを忍耐強く受け止めることが、私たちの召命なのです。

 今日、不当なことは不当であると明確にして裁判に訴えることも、私たちの持つ正当な権利であるとも思っています。そして、この世の不当なことを糾弾することが必要だと考える場合もあります。基本的人権を主張して、社会の不正を正して、政治活動や裁判闘争でもすることが必要な場合もあります。私も社会的に不当なことは不当として、社会に訴え、裁判に訴えることも必要なこともある、と考える者の一人です。

 しかし、ペトロは、今日のこのような社会的な不当に対して対処する道とは異なる道を教えているのです。ひたすら従順に、不当と思えることをも、耐え忍ぶことを勧めているのです。そして、そのように生きることが、私たちへの召しなのであると語るのです。この耐え忍ぶ道について、今日の私たちも真剣に受け止めなければならないのです。

 この不当な苦しみを耐え忍ぶ、この召しの道にはお手本があります。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。私たちは、キリストの跡、イエス・キリストが踏んで行かれたみ足の跡に従うのです。キリストが残してくださった模範がある。「模範」とはお手本です。お習字をする時、手本があり、手本をなぞるところから始まります。お手本を下敷きにして、なぞっていきます。

 ペトロは、私たちの人生には正しいお手本があるではないか。そのお手本のように生きることが私たちの召しなのだと語っているのです。キリストに従ってキリストのみ足の跡に従うようにと救い出されたのです。これが私たちの召命です。私たちが受ける不当な苦しみは、神の召命という意味を持ちます。主イエスは御自身のために苦しまれたのでなく、罪人の罪のために苦しまれた。同じように、私たちも不当な苦しみをキリストの故に耐えるのです。主イエスは十字架の苦しみを、主を信じる者たちがその足跡に従って歩むようにと手本として残されました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ福音書8:34)と言われた主イエスの跡に従うのです。キリストの模範に従って、たどたどしくても、み足の跡をなぞっていくのです。