2017年6月25日礼拝説教 「無言の行いの力 」

2017年6月25日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章1-6節

無言の行いの力

 

 使徒ペトロは、ここでは妻と夫の関係を取り上げます。先ず、妻の在り方を「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と、夫への服従を勧めます。結婚式の時に読まれる個所の1つです。これから神の前で結婚の誓いを立て家庭を築いていくためのはなむけの言葉です。結婚式のため準備クラスをしていた時、女性が「キリスト教の結婚って、ずいぶん封建的なんですね」と言った。今、この礼拝に出席している方の中に、このみ言葉に「アーメン」と言えない方のいないことを願っています。結婚式を終えて何十年もたつ人も、いつか自分も結婚するだろうという人も、このペトロの勧めの言葉を自分に対して語られている言葉として受け止めていただきたい。

 キリスト教信仰は生活の在り方を重視します。良い木はよい実を結ぶ。信仰がその人の心と魂とを支配するようになると、当然ふさわしい生活が生み出されてきます。結婚とか家庭生活においても当然です。そのために、ペトロは夫婦の関係についても懇切に教えているのです。

 夫には1節ですが、妻には6節も費やしている。妻だけに重荷を負わせるのかという声もある。実は夫よりも妻の生活の方がはるかに困難だからです。夫が信徒であれば、妻が教会に行っても問題はない。しかし、妻が先ず信者になった場合、または信徒である女性が未信者の男性と結婚した場合、困難な課題を抱え込むことになる。初代教会の時代、夫婦で信仰が違う場合が普通でした。日本の教会でも、女性が最初に信仰を持つことが多いのではないか。女性が先ず信仰を持ち、そして夫たちを信仰に導いて行った。女性によって福音が広められていった事情を反映しているのです。

 ペトロは「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても」と言います。「御言葉を信じない人」とは、未信者のことです。信仰が違っても、妻は夫の元から去らない。信仰の違いは離婚の理由にはならない。信者になった妻は未信者の夫に従うべきだと教える。これは妻にとり大きな困難を背負うことになります。ペトロは妻の困難を考えてはいないのか。決してそうではない。神は妻の従順と服従に対して大きな希望を与えておられます。「妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになる」という希望です。「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。

 ペトロが勧めることは、夫に信仰を強制したり、議論したり、いさめたり、罵ったりすることではない。非常に単純なこと、従順な妻であることを勧める。「無言の行い」、「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見る」という言葉に表されているように、生活の在り方、信仰者の姿を示すことです。バークレーという注解者は、この箇所に「美しい人生に関する沈黙の説教」という表題を付けています。沈黙の説教をするのだ、その生活を通して夫の偏見と敵意とを打ち砕いて神のもとに獲得するのだと。

 「見るから」という言葉が大切です。注意深く見る、観察する。妻が教会に行き始めた。すると未信者の夫は無関心ではおれなくなる。ジッと妻の生活を眺めるようになる。その生活が神を畏れる真実ものですと、福音の教えは分からなくても、神を信じることへの心備えがなされていくのです。ペトロは、妻が口やかましく信仰について語らなくても、無言の内に信仰者らしい生活をすれば、夫をキリストのもとに獲得できる準備が出来るのだと教えているのです。

 夫に見られている妻として、「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません」。視点は夫が「見る」こと、妻を見る夫の目なのです。ペトロは派手な装いは避けなさい、と語る。この言葉を一切化粧をするな、パーマもかけるな、髪飾りや美しい衣装を持つことは罪だ、と言う方もいます。そのように主張する牧師もいます。私はそれは違うと思う。聖書は文脈をきちんと理解しないと極端な間違った方向に行ってしまう。ペトロは信徒の女性がお化粧したり、パーマをかけたりすることを禁じているのではありません。

 妻が夫のために身を飾ること、小ぎれいにすることは当然なことです。妻が美しくあることは夫の喜びです。ただ、外面的な飾りと内面の飾りとどちらが大切かということです。どちらが朽ちない、長持ちする飾りとなるかです。妻が若く美しい時は一時です。年老いて衰えてくる。その時にこそ、何によって身を飾るのか。「むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです」。

 内面的な人柄の中には教養も含まれるでしょうが、ここでは何よりも祈りの生活です。この世的な教養を積んでも人を傲慢にさせる場合がある。そうではなく、神の御前に自らを謙遜にさせ、キリストの苦しみの後に従って生きる祈りの生活です。私たちは祈るのです。神の憐れみと恵みとを求めて祈り続けるのです。自分では何もできない。ただ神に信頼して祈る。へりくだりと素直さとが内面的な人柄なのです。そして「このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」。

 アウグスチヌスには「告白録」という著作があります。その中に自分の母親のモニカについての記述があります。モニカは息子のアウグスチヌスの回心のことでも有名ですが、それだけではありません。モニカの夫はアウグスチヌスの父親になるわけですが、あまり細かいことは知られておりませんが、たいへんこの世的な人であったようです。大酒を飲み、妻を打ち叩くようなこともあった。しかし、晩年には妻と共に教会に行くようになったようです。そのことをアウグスチヌスはこう記しています。

 「母は、その振る舞いによって神のことを語り、夫を神に勝ち取るためにあらゆることをした。彼のために祈り続け、ついに夫を地上の生涯の最後において神に勝ち取ったのである」。これは決して5世紀のモニカだけのことではありません。いつの時代の婦人でも同じことではないでしょうか。私たちも祈りをもって毎日を歩んでまいりましょう。