2017年9月24日
聖書=Ⅰペトロの手紙4章1-2節
心の武装をしなさい
この箇所をお読みになって、どんな言葉に心を留められましたか。今回、説教準備のため改めて読み返し、心が捕らえられたのは「肉における残りの生涯」という言葉でした。先の主日に敬老の日の行事を行い、教会として贈り物をしました。今までは贈る側でした。今年から贈られる側になりました。浜松教会に来た時は、引退していたが「まだまだ」という思いがあった。最近は体もだいぶ弱ってきたなあ、ものごとに億劫さを感じる状況になりました。残りの年月を数える時になっているのです。
けれど、ペトロが語ろうとしていることは全く違う。「肉における残りの生涯」とは、年を取った人間の余生の問題を語っているのではない。ペトロ第一の手紙は、教会員に対して迫害に対処することを教えると共に、洗礼を受けたばかりの信徒に信仰生活の手引きとして記されたものと言われています。年齢的に若くても、年を取っていても、洗礼を受ける時に、人はだれでも決意をします。これからイエス・キリストを主と信じ、信仰に立って人生を送ろう。ついてはこの後の自分の人生をどのように生きていくかということを考える。このことを語ろうとしているのです。「肉における残りの生涯」とは、老後の余生のことではなく、洗礼を受けた後の人生のことなのです。洗礼を受けた後、どのように生きるかということです。
私たちは洗礼を受けた時、それぞれ決意をしたと思う。受洗に際して「あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束しますか」と問われ、「ハイ」と応えた。その決意が、いつの間にか崩れてしまう。信仰生活に波が生じ、困難が生じます。その波を乗り越えて、洗礼の時の決意を新たにし、その決意を守ることが心の武装なのです。私たちはいつ召されるか分かりません。若い者も、年老いた者も違いはありません。残りの生涯を、もう一度、心の武装をし直して、キリストのしもべとして生きることが求められているのです。
ペトロは、先ず「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」と記します。「ですから」が大事な言葉です。これが私たちの人生の根拠です。キリストが苦難を受けたことが分かれば、私たち信仰者の生活の仕方が変わるはずです。キリストの苦難によって私たちは贖われ、キリストのものとなった。キリストの苦難は私たちのためのものです。主イエスは、父なる神の御心に従順に従い抜いたのです。父なる神から託された救いの計画の故に、死に至るまで、御子は従順を貫かれました。
「あなたがたも同じ心構えで」とは、同じ思い、同じ考え方に立ってということです。キリストが、私たちのためにその体で苦難を受けられた。そのことが分かるならば、同じ心で武装しない人はいないはずだ。父なる神へ従う決意をもって「武装しなさい」。「武装する」は、武具をまとう、武器を採る、という強い意味を持っています。武装するのは戦いをするためです。キリスト者の信仰生活は戦いです。世の武器を持っての熱い戦争ではない。霊的な戦いです。信仰者として生きることは激しい戦いをすることです。悪魔との戦い、罪との戦い、自己との戦いです。
この信仰の戦いの1つの側面が「絶つ、捨てる」ことです。「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」。「罪との関わりを断った者」と完了形で言われている。完了形はあるところで終わったことが、今も続いているのです。このことを洗礼との関わりで語っているのです。
私たちは主イエスを信じているけれど、罪との関わりが断てないで苦しんでいます。なお罪が大きく力を振るっている。宗教改革者ルターは、信仰者は「義人にして罪人」と言います。まさにその通りです。キリストにあって義と認められました。しかし、現実にはなお聖化の途上です。しかし、例え、どんなに罪深くあっても、実は私たちは「罪とのかかわりを絶った者」なのです。洗礼はキリストに結ばれて、一度死んだこと、死んでしまったことを表します。私たちはすでに原理的には死んでいるのです。私たちの中に罪の力はなお及んでいますが、「罪とのかかわりを絶った者」として罪を憎み、罪から離れる戦いをするのです。
武装することの第2は、「神の御心に従って生きる」ことです。キリストを主として信じて生きようとするのであるならば、「人間の欲望に従うのではなく、神の御心に従って生きること」を決意しなさい。そのことを覚悟しなさい。「神の御心に従って生きる」。この言い方は一種の公式的表現となってしまっている。建て前として考えられ、受け止められてしまうことがある。「神の御心がなるように」と祈るけれど、上っ面になってしまう。真剣な決意であり、祈りであるべき事柄が建て前になってしまっている。
私たちの信仰の戦いはここからはじめて行かねばならない。信仰の言葉を建て前としてではなく、真剣な生き方、祈りの課題としていかねばならないのです。これが「宗教改革」です。宗教改革は、ルターやカルヴァンの時代のことではありません。私たちの教会の週報の1面に「み言葉によって常に改革され続ける教会」と記されています。宗教改革は今も継続されています。「神の御心に従って生きる」とは、ごく具体的なことです。
私たちの生活のあらゆる面で、神を第一とする判断をすることです。時間の用い方の中で、私たちはどれだけ神の御心に従っているだろうか。都合のつく時だけ礼拝に出席していはしないか。時間の都合が付いたから祈りの時を取るのではない。本来は、まず第一に礼拝を守ることを決意し、どんなに忙しくても祈りの時を第一にしなければならない。お金や財産のの配分も、自分の必要を取って残ったものを捧げるのではない。まず第一に、神を覚えて献げものを取り分けてから、私たちの必要をはかるのです。神の主権、神の御心に従って生きる決断をするところで、時間の使い方、お金の使い方、財の用い方など生活のあらゆる面で神を第一として判断していく。これが信仰の戦いなのです。神への服従に生きる戦いです。