2017年10月1日
聖書=Ⅰペトロの手紙4章1-6節
申し開きをしなければならない
ペトロ第一の手紙を貫いている2つの意識があります。1つは少数者の自覚です。どんな社会でも少数派の人たちは暮らしにくい。同じ国民で生活習慣などは同じでも、その信仰と生活態度などから受け入れられない。社会の少数者として生きる信徒の在り方は、初代教会と日本の信徒と似ています。2つは終末的な自覚です。この自覚がペトロの言葉の隅々にまで及んでいる。終末の自覚とは神の前に立つ意識です。神を意識しない社会の中で、神がおられ、神がすべてを見ておられ、最後に神がすべてを裁かれるという神の目を意識して生きる生活の姿勢が「終末的自覚」です。
「あなたがた」はキリストを信じた信仰者です。「あなたがたは」キリストを信じて生活の有り様が変わったと言っている。実は「あなたがたも」かつては、世間の人たちと同じ振る舞いをしていた、と指摘します。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」と。小アジア地方に住むキリスト者たちも信者になる前は、このような生活をしていた。これは今日の私たちも同じだろうと思います。キリストを信じるようになる以前の生活です。私たちも「異邦人が好むこと」を行っていた。神を知らず、自分の欲望に従う人間中心の生活を送っていた。「もうそれで十分だろう」とペトロは語ります。そういう生活から訣別しているのです。
そして「あなたがた」は、キリストを信じて新しい生活に入ったのです。生活の有り様は人それぞれ異なります。しかし、誰であっても、信仰に入る前の生活と信仰に入った後の生活では、はっきりと区別が付く。キリストを我が主、我が神として信じ受け入れ、キリストに従った新しい生き方を始めます。どこが変わったかと言われると困る。劇的なことでもあれば別ですが、ほとんどのキリスト者はそんな劇的体験は少ない。しかし、キリスト者となった時から新しい生活に入ったのです。自分の腹を神とする生き方から、神の御心に従う生活へと転換したのです。初めは気が付かなくても、しだいに変化していることに気付いてまいります。
このように変わってくると、周囲の人たち、信仰のない人たちから除け者にされる。ペトロの手紙の主語がここから変わります。「あの者たち」、「彼ら」です。社会の人たちです。「あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」。社会の人たちから罵られ、軽蔑されて、除け者にされ、仲間はずれになる。これは決して今日の日本のことだけでなく、ペトロの手紙が記された時代の小アジアの教会で起こっていたことです。つきあいが悪い、義理を欠いている、と言われる。信仰者が神を信じて生きようとする時に、このように非難されます。神に従って生きようとすると覚悟しなければならない。
しかし、ペトロは、信仰者を非難する「あの者たち」、「彼ら」と呼ぶ人たちについて、こう語ります。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」。ここに、ペトロの終末の自覚がはっきり語られています。人は、神の前に立たなければならない。しかし、世の人たちはこのことを全く自覚しないで生きている。世の人たちの生活の規準は、どこにあるか。自分の欲望です。これが生活の基準です。士師記21章25節に「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」とあります。神の言葉という指針を見失い、客観的なスタンダード、物差しがなく、自分勝手な生き方をしていた。神という絶対的な基準・価値観を持たないと、自分を律するのは自分しかない。自分の欲望が人生の主人です。
その中でペトロは、確かなことがあると語る。それは神の裁きがあることです。「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければならない」。この世の人たちだけでなく、キリスト者をも含めての公平な裁きです。但し、キリスト者はキリストの義の故に、キリストに結ばれ、救いが最終的に確定する時です。ペトロは、終末の視点からキリスト者と、キリスト者を非難する人たちとを見ているのです。私たちが忘れてならないのは、この終末の自覚です。
世の人たちは、キリストなしで自分の生活について神の前で申し開きをしなければならない。神を汚し、自分の腹を神としてきたこと、神の民をあざけり、迫害してきたことの一切が問われます。終わりの時の裁きは確かです。なぜ、人は死を恐れるのか。死が無に帰すことであるなら、そう死を恐れることはない。人は神によって造られたものですから本能的に神の裁きを知っている。聖書は人が死ぬことと死んだ後裁きを受けることが定まっていると記しています。信じない者にとっては恐るべき時です。
6節を解説して終わります。ここはキリスト者の終末の希望、復活の希望を語るところです。「死んだ者」とは、福音を信じて迫害の中で死んだ殉教者たちです。迫害が起こり、キリスト者であるだけで犯罪とされ処刑される。日本でもキリシタン迫害の時代、幕末・明治の時代、戦前・戦中の時代、多くの殉教者、悲しみの中で召された人がいる。彼らは人間的な見方からしたら「肉において裁かれて死んだ」。滅んでしまったように見える。
しかし、キリスト者は、裁かれ、肉において惨めに死んだ者となっても、神に対しては生きている。ペトロが語ろうとしているのは、このことです。ペトロは終末を見ている。すべてのものが公平に裁かれる終わりの時を見ている。彼らは「神との関係では、肉体が殺されても、霊においては生きている」。迫害によって死ぬ者は、決して無駄に死ぬのではない。地上の死は肉の死に過ぎず、神との関係を変更させるものではありません。キリストの命の中に生かされ、復活の栄光が与えられ、主と共に栄光の座に着くのです。ペトロは、この希望をしっかり持ちなさい、この信仰の確信を握って生きるのだ、と勧めているのです。