2017年11月5日礼拝説教 「恵みの善い管理者として」

2017年11月5日

聖書=Ⅰペトロの手紙4章9-11節

恵みの善い管理者として

 

 終末に備えして生きるには、どのように生活をしたらいいのか。ペトロは、愛に基づいて互いに仕え合うことと落ち着いた生活を教えます。その上で教会生活の在り方を勧めています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。霊的な賜物、物質的な賜物、才能、命、体も賜物です。賜物はすべての人に豊かに与えられています。

 時折、他の人には皆、すばらしい賜物を与えられている。ところが「自分には何もない」と言って、嫉妬し、ひがんだりする。けれど、賜物を与えられていない人は一人もいない。賜物を誤解している。体も賜物です。自分で造り上げたものではない。神から与えられたものです。生まれつき病弱な人、障害を持つ人もある。自分の体が賜物であると受け止めにくいかもしれない。親を恨めしく思う。神を恨む場合もある。しかし、体が弱いから神の賜物はないと言えるか。丈夫な人にはない謙遜さや愛やいたわりの心が敏感に分かることもある。弱さも、実は賜物なのです。

 聖書は、弱い体も賜物であると教えています。パウロは豊かな才能のある人でしたが、体に棘を持っていた。彼はこの体の棘は「自分が高慢にならないために」与えられたと理解した。そして「神の恵みは、わたしの力の弱いところに現れる」と言いました。人の弱いところに神の恵みは完全に現れるのです。体の弱さも神の恵みの賜物なのです。それぞれの異なった賜物のことで誇ったり、軽蔑したり、ひがんだりする理由は全くない。

 それぞれに与えられている賜物を用いて「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕え」るのです。「管理者」とは、主人から権限を託されて家を切り盛りし取り仕切る人です。主人ではない。しもべ、奉仕者として託されたものを、主人の意志に沿って「生かし、役立てる」のが善い管理人です。神から委託されているものを、神と隣人のために配分し役立てるのです。自分のためにだけに用いるのは良いしもべとは言えない。私たちは賜物を委託して下さった主イエスに決算を申し上げねばならない終わりの時が近づいていることを自覚しなければならない。

 使徒言行録9章36節以降に、タビタという婦人が紹介されている。ヤッファでタビタが召された。ペトロが呼ばれ、駆けつけました。タビタの亡きがらが置かれている部屋で、多くのやもめがペトロのところにきて、タビタが生前作ってくれた「数々の下着や上着を見せ」て、こんなことをしてくれた、これもタビタが作ってくれたと懐かしさに泣いた。彼女は裁縫が上手に出来る賜物を与えられていた。自分もやもめでしたが、めそめそしないで神から与えられた裁縫の賜物を用いて、教会に保護されていたやもめ仲間のために奉仕した。彼女は長老や執事として指導する人ではなかった。しかし、賜物を神からの委託物として用い「恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えた」のです。どんな賜物であれ、それを主からの委託として兄弟姉妹、隣人に仕えていく時、それは主に対して捧げられた奉仕として受け止められるのです。

 次に、ペトロは多くの賜物の中で教会を支える2つの大きな賜物について具体的な勧めをしています。1つは、語る賜物についてです。「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」。教会において「語る者」とは、群れの長老、今日の牧師たちです。神はしもべを用いて神の言葉を語らせます。教会の最も大切な使命は神の言葉、福音を語ることです。教会にだけ独占的に委ねられている賜物が、神の言葉を語ることです。

 私たちは教会に何をしにいくのか。私たちは神の言葉を聞きに教会に来る。キリスト者が塩味を失ったら、道に捨てられてしまう。同じように、教会が神の言葉を語らなくなったら、教会が捨てられてしまう。そのために「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」と言われる。神の言葉を語るのは、牧師や伝道者、長老たちです。神の言葉の管理を委ねられている。「ふさわしく」と訳されている言葉は強い意味を持っています。「語る者は、神の言葉を、まさしく神の言葉として語りなさい」となる。

 「ふさわしく」とは、どういうことか。思いつきや人の思想を語るのではない。人の言葉で分かりやすく語らねばならない。しかし、人間の思いを語るのではない。神の言葉を語るのです。ただ聖書の言葉をオーム返しにすれば良いのではない。本来、人は神の言葉を語ることは出来ません。しかし、神は聖書を通して救いの恵みを語り伝えることをお命じになられます。福音の恵みを知って、その恵みに生かされて、神の恵みを証しし、人々を神のもとへと招くのです。語る者が、福音の言葉を忠実に正しく語ることが出来るように、教会全体で祈ることが求められているのです。

 さらにペトロは、「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」と記します。教会を支えるもう1つの大きな働きは奉仕です。「奉仕」を考える時の原点は、教会の礼拝です。礼拝は最も基本的にサービス・奉仕によって成り立っています。礼拝が奉仕と言われる第1は、キリストが私たちに仕えてくださった「神の奉仕」が基本です。主イエスが救い主として十字架について命を捨てて仕えてくださった贖いの恵みこそ礼拝成立の基盤です。礼拝は、キリストが私たちに仕えてくださった恵みの出来事を思い起こさせ、その恵みに生かされる時です。

 同時に、礼拝はキリストの奉仕に感謝して、私たちが賛美と祈りと献身を表す時です。キリストに仕えられた者が、神とキリストに仕える時が礼拝なのです。礼拝は、このような奉仕の場なのです。主イエスが私たちに仕えてくださったように、私たちも主に仕えるのです。ここに、私たちキリスト者の奉仕の根拠があるのです。キリストが仕えたように、私たちも仕え合うのです。ここに私たちの奉仕の原点があります。救いの恵み、贖われた恵みに対する感謝と喜びから自ずと溢れ出てくる私たちの奉仕です。