2017年11月12日礼拝説教 「火のような試練」

2017年11月12日

聖書=Ⅰペトロの手紙4章12-16節

火のような試練

 

 「身にふりかかる火のような試練」と記されます。「ふりかかる」とは現在分詞が使われています。現在「火としてふりかかっている試練」です。ローマ本国よりも早く小アジアから迫害が始まったようです。ローマから派遣された支配階級の人たちと小アジアの地域の人たちのキリスト教に対する批判が一つになり、キリスト者をローマの宗教に従わない「犯罪人」として捕まえ弾圧し始めた。「火のような試練」が現実に襲いかかっていた。

 ペトロは、当初4章11節で手紙を終わろうとしていた。しかし書き加えるべき新しい事態が起こった。この手紙を携えて、シルワノが小アジアにある諸教会のところに旅立とうとしていた。ところが出発する直前に、小アジアの兄弟たちに「火のような試練」が降りかかってきたことを伝え聞いたのです。ペトロは小アジアの兄弟たちを励まし勇気づけるために書き加えねばならないと思い、新しく文章を書き足したのです。

 4章12節から5章では、現実にすでに激しい迫害が行われていることが読み取れます。投獄、処刑、追放のような暴力的な迫害を受けていることが読みとれます。ペトロは、小アジアの信徒へのこのような試練を「何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」と言います。これは、すでに主イエスが教えておられたことです。マタイ福音書5章11-12節「 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と。

 キリストを信じるとは、キリストの体の一部となることです。自分の生活も命もキリストと切り離すことは出来ません。と言うことは、私たちも同じ苦難を引き受けることになるのです。信仰生活はキリストと共に苦しむことです。そして、試練の持つ意味を明確に語る。試練は第1に、あなたがたがキリストに結ばれている証拠なのだ。栄光を受けることの証拠なのだと語っている。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」と語るのです。苦難はキリストに結ばれている証拠なのです。

 試練は第2に、私たちの信仰を鍛えて本物とさせてくれます。「試練」(ギリシャ語「ペイラスモス」)は、金属を火によって鍛え、純化するという意味を持つ。掘り出された鉱石が燃える火の中で不純物が吹き分けられ純粋な金が取り出さる。ペトロの念頭には詩編66編10節があった。「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された」。試練はつらいことです。しかし、試練によって純粋な信仰へと鍛えられていく。

 今日の日本では、このような目に見える形での国家的な迫害はまだない。そのため教会の中にキリストのために迫害を耐え忍ぶ、苦難を受けることの信仰的な気概が失われているのではないか。そうだとしたら、キリスト者が塩味を失っているのです。迫害は強いて招くものではないが、教会がキリストを愛し、キリストに従って生きようとすると起こってくる。教会が神の言葉、福音を本気で語り出すと必ず迫害が起こってきます。キリストを信じることはキリストのために苦しむことでもあるのです。

 「キリスト者」という言葉がでて来る。ギリシャ語「クリスティアノス」。この箇所と使徒言行録11章26節と26章28節の3個所だけの珍しい言葉です。ある特有の意味が込められていた。「クリスティアノス」とは信徒が自称したのではなく、周りの人が軽蔑して呼んだ言葉です。十字架につけられて死んだ犯罪人を「メシア・キリスト」と呼んで帰依している奇妙な連中という軽蔑の言葉でした。権力者だけでなく周囲の社会が「あいつらは変わり者だ」というレッテルを貼った。今日でも多くの人が「あいつはクリスチャンだ」と言う時、何らかの意味で自分たちとは変わった異質な人間という軽蔑の意味が込められている、と言ってよい。

 ペトロは「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」と語ります。ペトロは周囲が軽蔑して語る「クリスティアノス」という言葉を積極的に用いる。意味を逆転させて用いている。「十字架につけられた犯罪人をメシア・キリストとして帰依する奇妙な連中」という「クリスティアノス」を、文字通り「キリストのもの、キリストの所有」という意味で受け止め直している。軽蔑の言葉を誇りうる言葉としている。「クリスティアノス」、本来は差別用語です。しかし、ペトロは差別用語だと使用禁止を訴えるのではない。むしろ、誇りうる用語として受け止めた。「キリスト者」と呼ばれることは、恥じる言葉ではなく、私たちの誇りです。軽蔑の言葉を誇りうる名前としてしまった。これこそ、恥じるなと言うことです。

 そこには強烈な信仰がなければならない。信仰なくして軽蔑の言葉を誇りうる言葉に変えてしまうことなどできはしない。それは神が共にいてくださるという確信です。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」。ペトロは迫害があり、キリストの名のために非難されるならば「幸いだ」と記します。その理由は「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるから」です。

 迫害に耐え、苦難を忍ぶことができるように神の霊、聖霊が共にいて支えて下さる、それに打ち勝たせて下さるのです。教会の歴史は迫害の歴史でした。迫害の歴史の中で、信仰の証しをした人たちは決して特別な人たちではなかった。迫害におののき、罵りの言葉に傷つく人たちでした。その人たちを聖霊が支え、守り、助け、打ち勝たせて下さったのです。その勝利の秘訣は礼拝を中心とした信徒の交わりです。迫害を耐え抜く力は聖霊の力であり、礼拝を中心として支え合う聖徒の交わりなのです。