2017年12月17日
聖書=ルカ福音書14章15-24節
まだ席があります
この個所は、主イエスによって語られた「盛大な晩餐会」と言われる例え話です。この晩餐会において示されているのは、実はクリスマスの喜びの食卓であると申し上げていい。このクリスマスの喜びを表す盛大な晩餐会には、4つの大事な意味が込められています。
この晩餐会に込められている第1の意味は、長い準備の時があったことです。祝いの食卓のためには相当な準備の時と手間がかかります。この祝宴の主、ホストは主なる神です。神が、旧約の長い年月をかけて祝宴の用意してきた。愛をもって罪人の救いを用意し、神の御子を送り、救いのすべての準備が今、調いました。義と認められ、神の子とされた人たちが、神が用意された盛大な祝宴にあずかります。旧約から一貫した救いの完成のイメージです。クリスマスは神の整えられた盛大な祝いの時です。
第2の意味は、最初に招かれた人たちから拒絶されたことです。拒絶された晩餐会です。主イエスは語ります。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。この時代のユダヤでは正式な晩餐会、婚宴などを催す時には2重の手続きで客を招きました。まず、宴会の開催の日時を知らせて出欠の返事をもらいます。その時に、用意が出来たら改めてお知らせしますと伝えておきます。
予定した日に用意が整ったところで、「出席します」と返事した人たち、つまり「招いておいた人々」に、しもべを派遣して「用意が出来ましたから、おいでください」と伝えます。ていねいな招き方です。最初の招待を受けた人たちは、直前になってみんな断ったのです。この人たちは「出席します」と答えた人たちです。出席者が3人だけというのではありません。この3人は多く招かれた人たちすべてを代表する3人です。理由はそれぞれ違うが、全部の招待客が断ってきた。結局だれも来なかった。クリスマスの主であるイエス・キリストは拒否されたお方です。
だれがこんなことを予想できたか。皆さんの息子、娘の結婚式で、こんなことが起こったらどうするか。返信ハガキには「出席」としながら、当日に、みんな申し合わせたように「行けない」と言って一人も出席しない。こんなことだったら披露宴など開けない。料理は冷たくなり、捨てられてしまう。主人の1つの結論として、晩餐会の中止があったでしょう。
しもべは主人に断られたことを報告します。この主人に例えられているのは神です。主人は怒り、悲しみます。私たちはこの神の怒りと悲しみを理解できる。主人は宴会を中止したか。しなかった。招く方向を変えた。この例えが示す最も大切な第3の点です。主人はしもべに命じます。「急いで町の広場や路地へ出て行け」と。街の広場や路地にいるのは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」たちです。「彼らをここに連れて来なさい」と。ここから、神の招きの方向が大転換した。最初に招かれていた人たちは、財産のある人たち、幸福な人たちです。畑を購入できる人、牛を大量に買うことの出来る人、妻を迎えて人生を楽しむことの出来る人たちです。この人たちから拒まれて、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招くことになった。これこそ、主イエスがなさったことです。主イエスの周りに集まってきたのはこのような人でした。遊女、徴税人、罪人。病む人たちでした。
財産を持たないで街の広場や路地を徘徊しているホームレスのような人たち、心も体も病む人たち、交わりから除外されて孤独を抱えている人たちが招かれた。さあ、祝宴へどうぞ、と。費用などいくらかかってもかまわない。ここに至って、主人は見も知らない人たちを祝宴の中に招き入れた。マリアの賛歌を思い起こしていただきたい。「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ福音書1:52-53)。
しもべはなお言います。「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と。主人は命じます。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。これこそ、異邦人世界への招きの言葉と言っていい。この時代の町は、町囲いという外壁・城壁によって囲われていました。「通り」とは「町囲みの外の大通り」です。小道とはその大通りの枝道のことです。町囲みの外に住み、そこに往き来する人たちは、寄留の人々、外国人、隊商たちです。異邦人、外国人でもかまわない。誰であっても連れてきなさい。神の国の食卓を一杯にするのだと命じておられるのです。
第4の点は「席」の問題です。しもべは出て行って、貧しい者たち、体の不自由な人たち、病む者たちを招き入れた。それで終わりではない。しもべは「まだ席があります」と言い、主人も「この家を一杯にしてくれ」と言います。冷静に考えてみてください。普通だったら、どんな大きな家でも何十人か、何百人で一杯になる。競技場でも定員がある。この家はとっくに超満員になっている筈です。この家には限界はないのか。出会う人すべてをここに導いてきて、入れるだけの余地があるのか。「まだ席があります」。この言葉は閉じられていない。まだ「いっぱいに」なっていない。
ある聖書学者は「ここに神の奇跡が記されている」と言います。人間にとって不可能なことも神には可能です。神は座席のないところに座席を創られる。余地のないところに、余地を創り出されるお方です。「この家をいっぱいにしてくれ」という言葉は、この祝宴に招かれてきた人たちが、だれ一人はじき出されることのない広いスペースがあるということです。クリスマスの喜びの食卓には限界がありません。詩編18編20節で詩人は、主は「わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる」と語ります。私たちが、次々に入っても「まだ席がある」のです。