2017年12月31日礼拝説教 「恵みに踏みとどまれ」

2017年12月31日

聖書=Ⅰペトロの手紙5章12-14節

恵みに踏みとどまれ

 

 ペトロは、この手紙を結ぶに当たり、シルワノのことを記します。「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」と。シルワノはこのペトロの手紙にとって大切な意味を持つ人です。この手紙はペトロが口述し、シルワノが文章を直しつつ筆記した。シルワノはシラスとも言われ、使徒言行録ではパウロと一緒に行動し、フィリピの牢獄にパウロと一緒に捕らえられた人です。

 ペトロの手紙は不思議なほどパウロの語る福音と一致しています。それはシルワノを通してのことでした。新約の手紙の中で教会に宛てられた手紙はただ一人の人によったのは少ない。パウロも多くの手紙を、兄弟テモテと共に、兄弟ソステネと共に、兄弟一同から、と記すように他の人との連名にしている。ペトロの手紙もシルワノとの連名の手紙でした。手紙の執筆者は天才的・独創的な人ではなく共同体の中にいる。共同体から共同体への手紙です。神からの手紙ですが、具体的には群れから群れに送られた手紙です。パウロ固有な言い方があり、ペトロ固有な表現がある。しかし、パウロ個人のメッセージではない。ペトロの創造的なメッセージでもない。使徒たち全体の言葉であり、使徒たちに福音を委ねたキリストの言葉なのです。ペトロは自分の名前だけでなく、自分だけのメッセージとしてではなく、シルワノとの共同の手紙として差し出しているのです。

 この手紙の差し出し地「バビロン」は象徴的に理解してローマを指していると理解します。ペトロはローマにいて身近に迫っている教会の危機に気づいていた。エルサレムから始まった福音宣教が、当時の世界中に告げ知らされ、各地に教会が建てられてきた。ごく初期、ユダヤ教からの迫害はあったが教会は順調に成長してきた。僅かの間にローマにまでも福音が伝えられた。ところが、ペトロはこれから教会が試みられる時代、迫害の時が来ること、もうすでに来ていることを実感している。この手紙を締めくくるに際して、試みの時が来ることへの最後の勧めをしているのです。

 最後の勧めの1つが「この恵みにしっかり踏みとどまる」ことです。「この恵み」とは、キリストにおいて示された救いの恵みです。私たちの身代わりとして主イエスは十字架を担われた。ペトロの手紙は、このキリストの苦難を生き生きと伝えて、このキリストの尊い血によって私たちは救われたのだと語る。そして、主イエスは十字架に死んだ後、3日目によみがえりました。キリストの復活こそ、私たちの希望であり、私たちがこの地で生き生きと生きる力の源です。私たちも同じ復活にあずかることが出来る。この希望に生かされ、私たちは神の民、聖なる祭司とされて、御国を目指しているのだと記しています。

 「神のまことの恵み」は、10節の「神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と関わります。幾つかの言葉を重ねて、神の救いの恵みを約束しています。その中心は「完全な者として下さる」です。これは、具体的に私たち自身の身において起こる神の恵みの現実です。

 「完全な者としてくださるまことの神の恵み」とは、神が私たちの破れを繕ってくださることです。私たちはキリストの十字架と復活の恵みの下に立ち続けて行かねばなりません。しかし、私たちはこの神の恵みの下に立つことにおいても破れを見ることがあります。神に背を向け、不信仰になり、神の恵みが覆われてしまい、私たちはくずおれ、失敗することがある。ペトロの失敗は私たちの失敗です。いろいろな試練や苦難に出会うと私たちは目の前が真っ暗になって失敗するかもしれません。

 迫害が起こる。私たちの信仰生活の基盤がぐらぐらに揺れて、土台石が外れそうになる。その時にもなお、神が支えて下さるのです。信仰の破れが繕われ、傷がいやされ、完全なものとしてくださるということです。私たちを、本来の道、つまり神の恵みに生きる道に立ち続けることが出来るようにして下さる。神が回復してくださるのです。

 ペトロの最後の勧めの第2は、「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」です。「愛の口づけ」は、初代教会において聖餐式の時に交わりの印として行われていたと言われている。口づけと言うと、日本では男女の愛情表現の1つと思われています。しかし、古代近東の国々では親しい者同士の挨拶の1種です。互いに「兄弟である、仲間である」として抱き合い、頬を寄せ合う。旧約の中にはしばしば出てまいります。それが初代教会の中では聖餐式などの折りに行われたのです。

 アメリカの教会の礼拝では「挨拶・交わり」というプログラムがあり、礼拝の中で前後・両隣の人たちと握手をして「歓迎、よくいらっしゃいました」と短い挨拶を交わします。日本の教会ではあまり行われていませんが大切な意味のあることなのです。見知らない人、外国から来た人でも「あなたは私たちの兄弟です。私たちの仲間です」と具体的に現しているのです。私たちは、この精神を受け止めてまいりたいと願っています。

 ここで、ペトロが勧めているのは教会における愛の交わりの確立です。何のための愛の交わりか。互いに神の恵みに生きるための励ましのためです。皇帝ネロの迫害が始まろうとしている。小アジアではもう迫害が始まっている。危機の中で、教会が強く生きる道は特別な策を弄することではなく、互いに励まし合う愛に生きることです。愛の口づけに表される互いに愛し合う交わりを熱くすること以外ないのです。互いに愛し合い、祈り合い、支え合い、助け合うことがなされるところが教会です。この世の中で、私たちが信仰が支えられて生きる道は、互いの愛を熱くし、愛の交わりを絶やさないことです。ペトロが、この手紙の中で真剣に訴えているのは、このような愛の交わりとしての教会を建て上げることです。これこそ、どのような迫害の中ででも強く抵抗して立ちうる教会なのであります。