2018年1月21日
聖書=ヨハネ福音書1章43-51節
来て、見なさい
私たちは今、イエスを神の御子、救い主と信じて礼拝を捧げています。1つの霊によって導かれ、主イエスの血によって洗われ、同じ主に仕えています。しかし、皆、同じような道筋で信仰に導かれたのではない。皆、同じ信仰の体験を持つのでもありません。この箇所から学ぶ1つは、信仰に導かれるのはいろいろな方法、いろいろな道筋があることです。
フィリポはイエスご自身に導かれました。アンデレは洗礼者ヨハネによって導かれた。シモンはアンデレの証しによった。イエスの弟子になるのは決して同じ道筋によるのではありません。さまざまな方法、道筋でイエスを信じるように導かれるのです。教会で時折、証しを語ることをします。印象的な証しが語られます。すると聞いた人から「私はそんな劇的な人生を過ごしていない。私は信仰には向かないのかもしれない」と言われたことがある。そうではない。人の数だけ証しがある。劇的な入信の証しだけが入信の道ではなく、さまざまな道を通してイエスに導かれるのです。神は人を個々別々に取り扱っておられることを覚えたい。
これは伝道を考える時にも大切なことです。伝道の手段を考える時、ある教会でたいへん有効であったということで、皆それを採用する。そして失望する。伝道の手段や方法は決して1つではない。主イエスはご自分の弟子をいろいろな方法で、いろいろな道を通してお召しになるのです。
主イエスによって召されたフィリポは友人のナタナエルに出会います。そしてナタナエルに言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ここにはフィリポのキリスト理解が明確に語られている。律法と預言者とは旧約聖書を指す言葉です。フィリポは、旧約聖書全体が証ししているお方、つまりメシア・キリストに出会ったと語っているのです。
旧約聖書はキリストを指しています。シナイ山で制定された多くの儀式はキリストの贖いの恵みをかたどるものです。旧約はキリストについての証言集と言ってよい。フィリポは旧約が証しするメシア・キリストを待っていた。そして今、その聖書の主人公に出会ったと言っているのです。このフィリポの理解こそ旧約聖書の基本的な正しい読み方です。
フィリポの証言に対してナタナエルは冷たく突き放します。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と。ナザレのような田舎から大人物など出るはずはないという偏見です。偏見に基づく食わず嫌いです。このような人はたくさんいる。この偏見を直すには実際に食べてもらう以外ない。議論はあまり意味がない。フィリポが「来て、見なさい」と語ったのはすばらしい伝道法でした。フィリポが彼の偏見をとがめ、理詰めで攻めたてたら怒らせただけです。ナタナエルがイエスを知ることが出来たのは「来て、見なさい」という率直な言葉によった。私たちも理詰めで心を動かされることは少ない。「私は救い主に会った。来て、見なさい」と話すことです。
主イエスはナタナエルを見ると、彼を高く評価します。「この人はまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と。すばらしい迎え方です。半信半疑でやってきたナタナエルの警戒心がほぐれた。「どうして初対面の自分を知っているのか」と尋ねる。イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言う。ナタナエルにとっても、忘れられない時であったろう。祈っていたのか、瞑想していたのか、人目につかず、一人孤独でいた時であった。独りでいたナタナエルの姿を、主イエスが「見た」と言われた。
ナタナエルは、びっくりすると同時にハッと気付いた。自分が一人でいた時、だれも見ていないと思った時、見ていたお方がいる。この方は、ただの人間ではない。そう受け止めた。「神の子だ」というのが彼の理解でした。イエスは自分が考え、行っていることを全部知っている。このような方は神以外ない。そう感じた。イエスの「見る」は、じっと見詰めることです。信仰は、私が何にも分からない時から、イエスが私を見詰めていた。ここに始まる。讃美歌21/11「母の胎に ありし日より あがないたもう 神の力」と歌う。母の胎と言うだけではない。父母が生まれる前から、神は「私」の存在を見ていてくれた。これが聖書が語ることです。私が意を決して教会に来るよりもズーと前に、イエスが私を見詰めていて下さった。だから、イエスの元に来ることが出来た。信仰に入ると、イエスがこの私の生涯を見ていて下さった、という実感を深くするのです。
「あなたは神の子です。イスラエルの王です」というナタナエルに対して、主イエスは「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われた。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と。イエスの弟子たちは必ず見るようになる。何を見るのか。「天が開かれる」のを見るのです。天と地とが往き来できるということの比喩的な表現です。私たちは2階に登るのには階段を登ります。そのように人の子であるイエスを階段にし、梯子にして、神の天使たちが登り下りする。別言すれば、天と地のコミュニケーション、神と人との交わりが、主イエスを通路として成り立つということです。
創世記28章12節に「天に達する階段」が記されている。ヤコブが兄エサウの怒りを買って家族を離れて逃れていく。その旅の途中、冷たい大地を寝床に堅い石を枕にして眠った。すると夢を見た。天にまで達する階段が伸びて神のみ使いが登り下りしているという夢です。このヤコブの夢に現れた神と人との交わり、神が共にいまして、守り、導き、神が見捨てないで救って下さることが、キリストにおいて現実になったのです。中世紀の神学者でボナベントゥラという人は、「天への梯子は、アダムによって破壊されたが、キリストにおいて修復された」と語ります。主イエスを信じる者は、いつも神の前に、父のところに登る道を持っているのです。