2018年2月18日礼拝説教 「神を証しするお方」

2018年2月18日

聖書=ヨハネ福音書3章31-36節

神を証しするお方

 

 この箇所は少し不思議なところです。新共同訳では30節までと区別されて新しく鍵括弧でまとめられているが、一体だれの言葉なのか。口語訳は27節から洗礼者ヨハネの言葉とされ、鍵括弧が閉じるのは30節ではなく36節です。新共同訳では洗礼者ヨハネの言葉は27節から30節で終わります。この部分は洗礼者ヨハネの言葉ではないという理解です。

 この31節からの言葉はだれの言葉なのか。多くの注解者はヨハネ福音書の執筆者の言葉であろうと推測する。私も使徒ヨハネが主イエスの恵みを思い起こしながら語ったヨハネの言葉として受け止めたい。ヨハネ福音書は使徒ヨハネが、主イエスの言葉と恵みを思い起こしながら語り記したものと言われている。老齢の使徒の周りに人が集まり、一言一言、ヨハネが語ることを筆記していった。使徒としての長い歩みの中で信仰に入る道筋について、信仰の基本について、繰り返し問われ、それに答えてきた。この福音書を記すのも信仰に入る道筋を示すことと言ってよいのです。

 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」と記されます。「上から来られる方」とは主イエスのことです。「天から来られる方」も全く同じです。イエスは、上から、天から来られた方である、というのがヨハネ福音書の主張です。上から、天からとは「神から」ということです。マタイ福音書16章に、主が12弟子を連れてフィリポ・カイザリアに行かれたことが記されている。そこで主は弟子たちに尋ねます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。世間の人の理解ではない。あなたがたの理解はどうなのかと問われた。ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。これが最も基本的な信仰の表明です。ヨハネは自分も一緒にいたこの時のことを思い起こしながら語っているのではないか。

 世間の人はイエスを一人の人間として見る。マリヤから生まれ、大工ヨセフの子として育ち、最後に十字架で殺されてしまった一人の宗教家に過ぎない。使徒ヨハネは「それは違う」と言う。イエスは神から来られた方である。人間の世界、地上の世界とは別の世界から来られたお方であると語る。「地から出る者」、すなわち人間とは違う世界、神の世界、上から来られた神のみ子が、イエスの素性なのだと語りたいのです。イエスは、私たちと変らない人としての歩みをされたのですが、その本質は天から来られた神の子なのだということを語りたいのです。

 そして「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」のです。「見たこと、聞いたこと」とは、直接的に知っているという意味です。推測、推理、想像ではなく、体験的・直接的に知っていることです。人間は神を直接的に知ることは出来ません。旧約の中で神に最も近く生きた人はモーセです。しかし、主はモーセに「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人はわたしを見て、なお生きていることは出来ない」と言われました。

 ヨハネ福音書では、イエスは「父のふところにいる独り子である神」と記します。イエスは神と共におられたお方、神の御子です。天にいます神のふところから遣わされて来た。このお方には直接的な神の知識がある。想像や推測ではなく、直接知っていることを語る。ですから「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」のです。イエスは神のふところにあったお方として神を証しするのです。神は聖霊をイエスに与えて、聖霊に守られて、イエスは間違いなく神を証しし、神の言葉を語られた。

 そのイエスの証しの内容は何か。第1の証しは「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」ことです。この箇所についてのカルヴァンの注解は示唆に富むものです。カルヴァンは「ここで語られている愛は、神の特別な愛であり、御子から始まり、すべての人に及ぶものである。なぜなら、その愛は御子を暖かく包むことによって、御子にあって我々を包むものである。御子の手によって、神のすべての恵みが我々に伝えられるようにするためである」と。父なる神が御子を愛によって暖かく包んだのは、キリストに結ばれた者たちをキリストと共に暖かく包んでくださるためであると述べているのです。主イエスは父なる神から伸ばされた愛の翼と言ってよい。主イエスの十字架のみ業は神の愛の証しなのです。

 主イエスの証しの第2は、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」ことです。永遠の命という救いが与えられるのは、御子を信じるかどうかの1点にかかっています。キリスト教信仰は、神の愛の証しである十字架のキリストを信じることです。これ以外ありません。どんなに多くの知識を得るかというのでもない。多くの奉仕をすることでもない。また「御子を信じる人は永遠の命を得ている」と言います。救いの現在性を示しています。信じる者は今、ここで「命を得ている」。主イエスを信じる時に、赦しと命、神の子としての権利が、その人のものになるのです。

 もし悔い改めず、信じないならば「命にあずかれない」。これが「上から来られる方」「天から来られる方」が語った証しです。そして、この証しを「だれも受け入れない」とヨハネは語ります。「だれも」とは強調です。実際には、イエスの証しを聞いてイエスの弟子たちは受け入れている。使徒ヨハネも受け入れています。しかし、イエスの証しを受け入れる人は「だれも」と言うほどに少ないのです。神のふところにおられた神の御子が来て、神の愛を直接伝えても多くの人は振り向きもしない。

 しかし、その中で「その証しを受け入れる者」が出る。それは聖霊の働きによります。目に見えない神に導かれて、受け入れる人が出てくる。そこに希望がある。受け入れる人が出てくる。それが「神が真実であること」の確認です。私たちは礼拝に出席するたびに、この神の真実を見ているのです。私の隣に神の真実を証しする兄弟がいる。これこそ奇跡です。何よりも自分が神が真実であることを受け入れて、神を礼拝しているのです。