2018年3月18日礼拝説教 「蒔く人と刈る人の喜び」

2018年3月18日

聖書=ヨハネ福音書4章31-38節

蒔く人と刈る人の喜び

 

 サマリアの女がイエスのことを伝えるために町に出ていった後、町の人が来るまでの「その間」の出来事です。弟子たちは「ラビ、食事をどうぞ」と勧めます。ここにイエスと弟子たちの関心の違いが表れています。弟子たちは先生の体の健康に注意が注がれている。これも大事なことです。昼時を過ぎている。食べ物をとってほしいと願った。この弟子たちの姿にイエスをもてなしたマルタの姿を見ることが出来る。イエスのために真剣に配慮しているが、イエスの本当の気持ちが分かっていない。善意はあるが霊的洞察力を欠いている。伝道には深い霊的な洞察力が必要なのです。

 主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と語る。弟子たちは「だれか、自分たちが知らない間に食べ物を持ってきて差し上げたのだろうか」と顔を見合わせた。イエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ心を行い、その業を成し遂げることである」と言う。食物を取る必要はないのではない。主は人を救いに導くことに大きな喜びと意欲を燃やし、それを飲食と同じくらい大切なことと語られた。飲食は不可欠で食物を摂らないと力が出ません。同時に、霊的な食べ物も必要、不可欠なのです。「わたしの食べ物」とは、イエスをこの世に遣わした神のご意志を行うことです。このことが自らを貫いて支える原動力であることを「わたしの食べ物」と表現した。使命に生きることがその人を生かしていく。私たちも使命に生きることを、生きる力にしてまいりたい。

 主イエスは、福音伝道との係わりで大切なことを弟子たちに教えた。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4ケ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と。種を蒔いたら収穫には4ケ月は待たねばならない、と人々は言う。しかし、主イエスは霊的な収穫、伝道の実りは4ケ月も待つ必要はない。もう収穫の時が来ていると言われた。「目を上げて畑を見るがよい」。主イエスはサマリアの町の方から多くの人が続々とこの井戸辺をめざしてやってくる光景を指し示しながら語られたのではないか。

 一人の女に語った福音の種がもう芽を出している。芽を出すだけでなく色づいて刈り入れの時だ。種蒔きと収穫とが同時だと言われ、弟子たちに刈り入れを求めているのです。「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」のです。イエスのサマリアの女性への福音の種蒔きが収穫に直結している。弟子たちに喜びの収穫を求めているのです。

 しかし、主は伝道を農業に例えて新しいことを語ります。農業では種蒔きと刈り入れの間には一定の時が必要ですが、収穫も刈り入れも大体同じ人が行います。しかし、主イエスは福音伝道をもっと長いスパン、長い視野で見るべきことを教えたのです。伝道では蒔く人と刈る人が必ずしも同じ人ではない。一人が種を蒔き、他の人がその労苦の実りを収穫する。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』という言葉は、イスラエルの戦国時代を象徴することわざです。蒔く人が刈り入れの時まで生き残れず、収穫は別の人だという悲劇的な意味の言葉です。主イエスはこの言葉を用いて、蒔く働きと刈り入れには相当長い期間があることを語っているのです。

 主イエスはサマリアの女性へ福音の種蒔きをなさいました。その刈り入れをするのは弟子たちです。主イエスは十字架と復活によって救いの種を蒔かれました。その刈り入れをするのは後の弟子たちです。ある時、ある人が種を蒔き、後に別の人が刈り入れます。その人も刈り入れるだけでなく同時に種も蒔くのです。さらに後の人がその実りを刈り入れます。種蒔きと刈り入れが同時に行われる。最初の種蒔きこそが主イエスの十字架の贖いのみ業なのです。そして刈り入れる者が続きます。それは刈り入れの喜びだけでなく、種を蒔いた人の喜びでもあります。共に喜ぶのです。

 私たちの伝道の実感は「伝道とは待つこと」ではないか。み言葉の種を蒔いても蒔いても、収穫を手にすることは少ない。地方の教会では、収穫の少なさに、どれだけ忍耐して待ったらいいのかと考え込んでしまう。「伝道者の働きは、流れる川の中に入って自分の体温で川の水を暖めるようなもの」と言われている。伝道の困難さ、収穫の少なさをなげく言葉です。

 主イエスは「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と言われた。伝道についての視野を大きく転換させる言葉です。使徒たちの伝道に先立って主イエスの種蒔きがありました。人間の一切の働きに先立って神の働きがなされている。伝道は神が先だって働いてくださる神の伝道に始まります。私たちの働きは、この神の伝道、神の働きに召され、参加するに過ぎません。

 農業では自分が蒔いたものは自分で刈り取る。しかし、神の言葉の種蒔きと収穫は蒔く人と刈る人との共同の働きなのです。今日、私たちの教会にも受洗、転加入者が与えられています。この受洗者、転加入者が与えられていることを自分たちの種蒔きの結果と考えてはならない。この教会が伝道を始めて以来の多くの伝道者と信徒の尊い奉仕の結果なのです。さらに受洗者に、あなたが最初にキリスト教に触れたのはいつのことですか、どこで初めて教会に行かれましたか、と尋ねます。多くの方が幼い頃日曜学校に行った記憶がある、昔、田舎の教会に行った、キリスト教の学校で学んだ、親や友人がクリスチャンだった、と話してくれます。

 

 この教会に来る以前に種蒔きがなされている。そして時至って、私たちの教会で刈り入れがなされているのです。人が心を開かれて主を受け入れるためには、どんなに多くの人の祈りと労苦が捧げられているかということです。刈り入れる人だけの功労ではない。1つの教会ということでは理解できません。神の伝道という視点に立つ時に見えてくる壮大な種蒔きなのです。伝道はスケールの大きな神の業であることを忘れてはならない。