2018年5月6日
聖書=ヨハネ福音書15章1-3節
まことのぶどうの木
ヨハネ福音書の中で有名な個所です。主イエスは語り出されます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と。聞く人にぶどう畑の光景を思い起こさせます。主イエスは、ここでご自分をぶどうの木に例え、信仰者をその幹に連なる枝々に例えています。注目する言葉がある。主イエスはわざわざ「まことの…」と言われた。「本物」、「正真正銘の」という意味です。と言うことは、偽のぶどうの木、品種の悪いぶどうの木があるということです。この言葉から、ぶどうの木の問題を見ていきたい。旧約聖書では、ぶどうの木やぶどう畑は神の民イスラエルの比喩でした。
最初にエゼキエル書15章1-5節です。預言者エゼキエルは、ぶどうの木は木ではあるけれど、木としてどこが優れているかと問う。レバノン杉のように家を建てる立派な木材になるか。家を建てる建材にはならない。では、この木で何か器を作れるか。なんにも出来ない。ものを架ける釘にもならない。火にくべられたら全部が焼けてしまう。ぶどうの木は木として何の役にも立たない貧弱な木だ。エゼキエルはそう語るのです。
次にイザヤ書5章1-2節です。預言者イザヤは、ぶどうの木ではなく、ぶどうの実に注目する。木は貧弱だが、そこに稔るぶどうの実はすばらしい。甘くておいしい。そこで主人は肥えた地を手に入れ、よく耕して石を除き、良い品種のぶどうの木を植えた。おいしい実が稔ることを期待し酒ぶねも用意した。ところが実際に稔ったのは酸っぱいぶどうだった。食べられない。「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と、主人は嘆き、問いかけている。告発している。
旧約の神の民イスラエルは貧弱なぶどうの木です。アッシリアやバビロニア、エジプトやローマ帝国のような世界の強国ではない。神は世界の強国として生きることをイスラエルに期待していない。神を信じ、十戒の民として生きることを期待していた。しかし、ユダヤの民は背伸びして軍事強国になろうとした。軍馬や戦車を輸入し軍事大国になって近隣諸国と戦いをして領土を拡大していった。しかし、元々ぶどうの木です。杉やヒノキになることは出来ない。簡単に焼かれてしまう。
しかも、ぶどうの木に期待していた甘くおいしい稔りはまったくなかった。神が期待するような信仰と生活をもって応えようとしなかった。まことの神を信じる信仰から離れて背信するイスラエルに対して、神は嘆いているのです。神は「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と言われます。このぶどうの木は元々よいぶどうの木でした。しかし、美味しい実を結ぶ木でも手入れをしないとたちまち小粒になり酸っぱくなる。野生に戻ってしまう。これが旧約の神の民イスラエルの姿でした。主なる神は言われます。「わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」。神が見捨てているのです。
しかし、ここから新しい展開があります。神は野生化し食べることの出来なくなったぶどうの木に代えて、イエス・キリストを新しいまことのぶどうの木とされました。新しいぶどう園の歩みがここから始まる。教会は、神の新しいぶどう園なのです。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。イエス自身が、ご自分をぶどうの木に例えています。ご自分を立派なレバノン杉に例えていません。主イエスは杉やヒノキになったのではありません。貧弱なぶどうの木です。イザヤ書53章が語る受難のしもべです。このお方に軍事力を期待できません。経済力を期待できません。このお方は私たちの病を担い、痛みを負い、多くの人に軽蔑されて十字架を担ったお方です。これが私たちの救い主です。
このお方が私たちのまことのぶどうの木なのです。このぶどうの木は生ける神につながっているのです。このぶどうの木自身がいのちを持っているいのちの木なのです。これが「まことのぶどうの木」と言われた理由です。この木は、神につながり、木自身の中に神のいのち、永遠のいのちを保有しているのです。主イエスは十字架に付けられて死に、よみがえり、永遠のいのちを持つことを示されました。復活の主なのです。このキリストという幹につながると、実を豊かに稔らせることが出来るのです。それはキリストという木は神のいのちそのものだからです。
主イエスのぶどうの木の例えで強調されていることは、「実を結ぶ」ことです。主イエスがぶどうの木の例えで強調していることは「豊かに実を結ぶ」ことです。ぶどうの木は、木としては貧弱ですが、豊かな甘い果実を実らせる。この豊かな果実を実らせるものとしてぶどうの木が例えとして用いられているのです。実を豊かに実らせる。これがぶどうの木とその枝々に期待されていることです。
主イエスはこの例えの中で、繰り返し「実を結ぶ」という言葉を語られました。このぶどうの木は、もはや野生化することもひねることもありません。信頼していい「いのちの木」なのです。問題は枝々がしっかりと幹につながり実を結ぶことです。信仰を持って、私たちはキリストとつながるのです。つながるとは、信仰によるキリストとの密接な交わり、生命的な結合です。宗教改革者ルターはこう語ります。「わたしの心の根拠、人生の基盤が、新しくされ、作り変えられる。それは信仰により、キリストに根づかせられる時である」と。
聖書では、私たちの心の根拠、私たちの人生の基盤を新しくすることが出来ると語ります。それはキリストを信じて、キリストにつながることによってです。神のいのちそのものであるぶどうの木、キリストに結ばれる時に、わたしたちは新しく作り変えられます。その結ぶ実は愛です。また、喜びを稔らせます。キリストに結ばれて結ぶ実は、愛と喜びです。このような実を結ぶことが求められ、期待されているのです。