2018年5月20日
聖書=ヨハネ福音書8章1-11節
赦しの恵みに生きる
主イエスは、朝早く神殿の境内に入りました。人々が次第に集まって来ます。主イエスは手頃な石に腰掛けて集まってきた人たちに話し始めた。しばらくすると女の泣き叫ぶ声が聞こえて、イエスの前に一人の女性が突き出された。ファリサイ派の人たちが女を引っ張ってきて突き出したのです。人の輪がさっと後ろに引き、イエスの前に広がりが出来た。すると、ファリサイ派の人たちが言い立てます。「この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」と。
人々の視線は、この一人の女性に集中します。姦通の現場で捕らえられたみっともない恰好のままです。引きづられて来た。泥まみれです。人々の好奇心、さげすみに満ちた目が女に注がれます。旧約聖書レビ記20章10節に「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」と記されている。女は人の輪の真ん中に置かれて逃れようもありません。小さく身をかがめている。ファリサイ派の人たちは女を指さして「さあ、イエスよ、お前はこの女に対して、どうするんだ、どう処分するんだ」と、言い立ててたのです。
ファリサイ派はおかしな人々ではありません。ユダヤはローマ帝国に占領され、人々の心はローマの魅力的な文化に流されていく。それに対して旧約律法に立ち返る運動を起こしたのがファリサイ派です。律法を厳格に守ろうと努力した真面目な人々で、民衆の尊敬を集めていた。しかし、イエスはこのファリサイ派と正面から論争した。この人たちに大きな問題点があった。自分は正しい、間違っていない、という態度です。自分たちは律法を知って律法を守っている。そこから罪を犯した者、失敗をした者に厳しい断罪をした。彼らは正義を背負い、律法をもってイエスに迫った。
この姦通の女の物語が福音書の中に記されているのは、どうしてなのか、考えたことがあるか。一人の女性の恥ずかしい物語です。この恥ずかしい物語が書き残されたのは後々の時代の人たち、特にキリスト者と言われる人が自分たちの中にあるファリサイ派的意識、律法主義に対して警戒するためです。ファリサイ派意識はキリスト者の中にも根強く生きています。その結果、自分のような不品行な人間、いかがわしい者は教会には居場所がないと言って、去ってしまうようなことも起こってしまいます。
ファリサイ派の人たちは問い続けます。イエスもお困りになっておられたのではないか。彼らの主張が正しいだけに問題なのです。イエスは、やおら顔を上げて言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。一瞬シーンとしたろう。この言葉によって状況が変わった。良心が問われたのです。胸に手を置いて考えさせる言葉です。このお言葉によって「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしま」った。身を引いて出て行った。問い続けたファリサイ派の人も自分の中にもある問題、罪に気づかされ、いなくなった。
主イエスのお言葉は人の心の奥底を突いた。外面は品行方正に見えていても、心の中はうぬぼれや陰湿なねたみで満ちていた。姦通の女を激しい言葉で罵倒しながら、心の内側では情欲を抱いて女を見ていた。姦通の女があからさまな罪を犯しているとしたら、ファリサイ派の人は秘められているが同じ罪を持っていた。もっと多くの悪意、ねたみ、高慢、人を裁く、無情、秘められた多くの罪を持っている。姦通よりも、もっと質(たち)の悪い罪を持っている。根本において同類です。もっと悪質であるとも言える。彼らは、イエスのお言葉で、自分の内側を見透かされたことを悟り、一人去り、二人去って、みんな消えていってしまった。
後に残ったのは、姦通の女とイエスだけです。彼女だけがイエスの前に残りました。惨めな姿をしたままです。しかし、ここにキリストの教会があると言っていい。なぜ、彼女は立ち去らなかったのか。逃げようと思えば逃げることも出来た。立ち去っても、とがめる人はいない。しかし、彼女は立ち去りません。必死の思いで踏みとどまっていた。ここに彼女の決断がある。イエスの前を立ち去らない。ここに彼女の悔い改めが示されている。自分の罪への深い悔い改めとイエスへの信頼があると言っていい。逃避という一時しのぎではなく、主イエスの前に身をさらしていたのです。
この女性に対して、主イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない」。赦しのお言葉です。可哀想だと言って水に流したり、あいまいにしたのではない。主イエスのご生涯がかかった非常に重い言葉です。このお言葉の背後にはキリストの十字架がある。罪の贖いがある。主イエスはこの後、十字架を担われます。十字架はまさに彼女のためでした。泥だらけで身をかがめている姦通の罪を犯した女性、この女の罪を主イエスが背負われたのです。彼女の罪を担って、主は血を流し、償いをされたのです。
なぜ、彼女を罪に問わないのか。イエスご自身が彼女の罪を担い、償いをされるからです。「罪に定めない」とは赦しの宣言です。あなたの罪は赦されている、あなたの罪はわたしが償うと、主は言われた。主イエスの前にうずくまる一人の女性、主から赦しの言葉を受け取った女性の姿の中にキリスト者の姿がある。教会の姿がある。今日、教会に集まってきた私たちは、主イエスを取り囲む集団の中で、どこに立っているか。よく考えてください。ファリサイ派の立ち位置に立っている場合が多いのではないか。
よく考えると、私たちもこの姦通の女と同じです。姦通の女よりももっと質の悪い罪に支配されている。私たちも、この女性と同じように主イエスの前に、罪に汚れたまま、罪のあるまま、身をかがめる以外ないのです。「主よ、罪人のわたしをお赦しください」と、赦しを求める以外ない。私たちは赦されて生きるのです。私たちが立つところは、赦しの恵みの中です。主イエスから罪赦されたという恵みに感動して生きてまいりたい。