2018年6月24日礼拝説教 「十字架を見守る人たち」

2018年6月24日

聖書=ヨハネ福音書19章25-27節

十字架を見守る人たち

 

 イエスが十字架につけられた時、そのお姿を見守っていた一群れの人たちがいた。イエスの母マリアと何人かの婦人の弟子たちです。少し離れたところから、しかし、イエスの言葉を十分聴きとることの出来る近さで見守っていたのです。十字架のイエスのお姿を見守る女性たちの存在を4つの福音書が共通して記しています。省略することができなかったのです。

 今日、4つの福音書の記述を通してイエスの十字架の出来事は割合、詳細に掴むことができる。この詳細な記述は、誰の見聞に依るのか。イエスの十字架処刑の出来事は、そのほとんどが少し離れたところで見守っていた女性たちの報告に基づいている。復活の出来事もそうです。十字架と復活の出来事はキリスト教信仰の心臓部で、福音の最も大事なところです。この大切な出来事の目撃証人として用いられているのが女性なのです。

 ユダヤ社会は徹底的な男尊女卑です。裁判では女は証人にもなれない。女の証言が認められなかった。福音書はこのユダヤ教伝統に対してはっきり1つのメッセージを示しているのです。福音の大切な出来事、十字架と復活の出来事の目撃証人として女性が用いられている。十字架と復活の最初の証人は、どんな人たちだったか。女性たちではなかったか、と。神は男たちが逃げ去った時に、女性を用いてキリストの十字架と復活の証人としたのです。この事実の重さを教会は受け止めねばならないのです。

 「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」と記します。マルコ福音書では、さらに小ヤコブとヨセの母、サロメがいたことを記している。登場する人の名前が一定していません。ルカ福音書では具体的な名前を挙げないで「ガリラヤから従ってきた婦人たち」と一括しています。十字架を見守るこれらの女性たちは、どういう人たちなのでしょうか。

 ルカ福音書8章1-3節に「イエスは…福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。十字架を見守る女性とは、基本的にここに記されている女性たちでした。

 主イエスの活動を支えたのは、男の弟子たちだけでなく、このような女性の奉仕にも支えられていたのです。表に立つ男たちの奉仕と共に、裏方を支える女性の奉仕があったことを覚えねばならない。教会のすべての活動は、表に立つ見える形での奉仕があり、同時に裏方を担う奉仕がある。裏方の奉仕がなければ、表に立つ奉仕も成り立ちません。主イエスとその弟子たちの伝道活動も、この女性たちの奉仕に支えられてなされていたのです。そして今、彼女たちはイエスの十字架の出来事の目撃証人として大切な務めを担うこととなったのです。彼女たちの目撃とその証言がなかったならば、十字架の出来事の詳細は伝えられなかったのです。

 耐えがたい苦しみの中で、主イエスは母マリアに深い配慮をなさいます。ここには「愛する弟子」という人がいます。十字架の下に立つただ一人の男の弟子です。「愛する弟子」とはだれか。伝統的な理解では、ヨハネ福音書の執筆者・使徒ヨハネと理解します。十字架の上から、主イエスは言われます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と。続けて、愛する弟子に言います。「見なさい。あなたの母です」。母マリアは絶望の中にいる。我が子の無惨な死に深く悲しみ、声を挙げて泣く女の姿です。後世のローマ・カトリック教会が伝説化したような聖母マリアではない。

 主イエスは、かつて葬列の中で一人息子を失い悲しみの中にあるやもめに「もう泣かなくてよい」と語りかけた。同じように、我が子の死に際し嘆き悲しむ母親に心に留めて、その身の行く末の配慮をなされた。愛する弟子に彼女の保護を依頼した。「婦人よ」という言葉に「自分の母親に対して、なんて冷淡だ」と批判する声を聞くことがある。これは読むべき事柄をまだ読んでいない。主イエスのマリアへの配慮の背後に、さらに多くの悲しみ悩む女性への配慮がある。もし、「わたしのお母さんを」と言ったとしたら、自分の母親だけへの特別な配慮になってしまう。「婦人よ」と呼びかけたのは、自分の母だけへの配慮ではなく、同じように子を失い生きる望みを失っている多くの人への配慮と慰めの言葉となっているのです。

 マルコ福音書3章35節で「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われた主の御言葉を忘れてはならないのです。母マリアを弟子のヨハネに委ねたことは、単なる親孝行という視点で見てはならない。それであったら、肉親の弟たちに委ねるべきでしょう。

 主イエスは、今ここで、新しい共同体の形成を見ておられるのです。主イエスは、家族を失い悲しみ悩む者に深い愛と同情、まことの配慮を示しておられるのです。主イエスの十字架の苦しみの中で示された愛と配慮とは、いつでも、だれに対しても変わりません。マリアにヨハネを指して、「あなたの子だ」と言い、ヨハネにマリアを指して「あなたの母だ」と言います。主イエスが「子よ」と呼び、「母」と呼ぶ。それは新しいキリストにある人間関係、新しい共同体が、ここに生み出されたのだと言っていい。

 

 今日の言葉で言えば、ディアコニアに生きる共同体です。初代教会はこの後、互いの持ち物を持ち寄って支え合っていきます。教会は新しい共同体なのです。互いを新しい家族として受け止めていく共同体なのです。今日の教会は、このディアコニアのあり方を学び直していく時になっている。教会の交わりの中で、愛の配慮について新しい取り組みをしていく必要があるのではないか。主の慰めに生きる教会の交わりが、ここにあるのです。