2018年7月1日
聖書=ヨハネ福音書21章15-23節
あなたは、わたしに従いなさい
ヨハネ福音書の最後は、イエスの弟子に対する召命の記事です。ペトロを取り上げて、主に従うとはどういうことかを示された。「あなたは、わたしに従ってきなさい」という召命の言葉で締めくくられています。食事の後、主イエスはペトロに尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。主はペトロの愛を問われた。ペトロはイエスが捕らえられた時、イエスを知らないと三度、否定した。裏切りです。この朝の食卓で、ペトロは居心地が悪かった。自責の念に駆られていた。
主イエスはペトロの主への愛を問います。愛を問うことは、人の真剣な領域に踏み込むことです。恋人同士、夫婦同士で「あなた、本気で私を愛してくれてるの」と聞くことがある。気軽な言葉の中で真剣さを確かめ合うことです。聞かれる方もドキッとする。愛を問うことは真剣なことです。ペトロは応えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主はもう一度確認するかのように問いを重ねます。「わたしを愛しているか」と。ペトロは改めて言います。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
このペトロに対して、主イエスは「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。ペトロにキリストの羊の群れを飼うことを委託された。牧者として召したのです。失敗したペトロを再び用いるのです。キリスト教会は、罪を犯し、失敗した者が、罪赦されて用いられるところです。「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」。このお言葉で、はっきりとペトロの罪を赦し、傷を癒し、使命を与えた。主イエスを愛し従うことに失敗した人間に、もう一度愛を問い直して、信頼して群れをゆだねられたのです。「よし、立ち上がれ。群れの牧者になれ」と言われたのです。教会は挫かれた者が再び立ち上がることの出来るところです。
主イエスはその後「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言われます。これをペトロの殉教の預言と理解する人が多い。確かにペトロはネロ帝の迫害時にローマで殉教した。しかし、これは殉教を語っているのではない。自分の自由にならないような死に方をすると言うことです。行きたいところに行く時は、自分でいそいそと用意する。行きたくないところには気が進まない。年を取ると旅するのもおっくうになる。しかし、ペトロの来訪を待つ群れもある。他の人が旅支度をし、気が乗らないところにも連れて行く。自分の思い通りには行かない。これが召された者の生き方です。
こう言われてから、主イエスはペトロに「わたしに従いなさい」と言われた。キリストへの服従は、行きたいところに行く、やりたいことをやる、食べたいものを食べるという自分勝手ではない。キリスト者の生涯はキリストが決められるのです。伝道者は献身をした者です。今日の伝道者の多くは自分の行きたくないところでの伝道を拒否します。「こんな田舎は苦手だ」、「寒いところは嫌だ」、「難しい教会員のいるところは、ごめんだ」と。献身とは言っても、どこかに留保がある。伝道者だけのことではない。キリスト者はすべて献身している。「わたしに従いなさい」という命令は、伝道献身者だけに語られた言葉ではありません。キリスト者全てがキリストへの献身者です。「苦しいや辛いことは嫌だ。失敗するような人生も嫌だ」。これでは従っているとは言えません。条件付けずに全面的に「わたしに従う」のだと言われたのです。
主イエスに言われて、ペトロは決断します。「生涯、主に従っていこう」と。ところがすぐ後ろを振り向くとヨハネがついて来ています。そこで、ペトロは尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。私たちも主に従う者ですが、気にかかることがあります。「同じクリスチャンでも、この人は豊かなのに、私はなぜ、こんなに貧しいのか」、「どうも私は貧乏くじを引いたみたいだ」と、口には出さなくても考えることはある。ペトロの質問の意図がどこにあろうが、主ははっきり語ります。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。
主イエスに従って行く時、脇見をするべきではない。人それぞれなのです。主は、ヨハネにはヨハネにふさわしい生涯とその死に方を用意していています。あなたは、あなたなのだということです。主に従う道は一人ひとり別々なのです。主に従う者にとって、見上げるべきは主イエスだけなのです。私たちは脇の人と見比べて自分の行動を決めるようなところがあります。他の人に対して異常なまでの関心があります。自分と相手を見比べるような関心は正しい関心ではありません。主イエスはきっぱり断ち切るように言われます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。
キリストへの服従は単なる自己犠牲ではありません。主は「わたしに」と言われます。服従とはキリストを目当てに生きることです。キリストに従う中で、キリストの恵みの真実を知っていくのです。キリストご自身が父なる神に服従されたお方です。十字架への道を黙々と歩み続けて父なる神に従い抜きました。その中で、私たち罪人の贖いがなされたのです。キリストの父なる神への服従は単なる生き方ではなく贖いの道でした。ここに救いの恵みの核心部分が示されているのです。
主イエスが「わたしに従いなさい」と言われるのは、救いの恵みの尊さと深い意味とを教えてくださる言葉なのです。救いの恵みは決して安価な恵みではありません。キリストの服従の代価が支払われている。キリストの贖いの恵みを本当に受け止めることが出来るのは、私たちの服従の中でなのです。主イエスを見上げて、一筋に従うことの中で、キリストの贖いの恵みの尊さとすばらしさを本当に悟ることが出来ていくのです。