2018年9月16日礼拝説教 「聖なる者の聖なる生活 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一4章1~8節

聖なる者の聖なる生活

 

 聖書に記されている「聖なる」という言葉は、単に「綺麗」・「汚い」の関係で理解すべきものではありません。旧約聖書によれば「聖」とは神様の御性質を表しますし、神様のために取り分けられたものを「聖い」と表現します。また神はイスラエルの民に対して、わたしは聖なる者だからあなたがたも聖なる者となれ(レビ記19:2)と語りかけられます。この言葉を根拠にして、パウロは3節で「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」と記しています。この前提にあるのは、語りかけられた者がすでに神に取り分けられた神の民であるという事実です。だから神に取り分けられた者として歩みなさい。これが「聖なる者となれ」という言葉の意図です。神に取り分けられた者が、神に取り分けられた者として歩むことは、当然のことです。しかしパウロは、この大切なことをテサロニケ教会に強制してはいません(1節冒頭)。「聖なる者となる」ことは、強制されてではなく、神に取り分けられた喜びの中でなされるべきことなのです。実際にテサロニケ教会はそのような歩みをしていました。その歩みを更に続けるようにとパウロは命じているのです。聖なる者となるということは、全く新しい生活を始めることではありません。今わたしたちがなしている信仰生活を、さらに前進させることが念頭に置かれているのです。

 では「聖なる者となる」とはいったい何を指しているのでしょうか。パウロが最初に挙げるのが、3節最後にあります「みだらな行いを避けるように」です。「みだらな行い」とは、不道徳な性関係全般を表し、特に売春婦と関係することを指している言葉です。このことについて5節では「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならない」とあります。この当時売春婦と関係することは、異教宗教の礼拝行為と結びついていました。したがってみだらな行いを避けることは、偶像礼拝を避ける意味でも重要でした。テサロニケ教会の人々は、ほとんどが異邦人の改宗者です。救われる前は、当たり前のようにみだらな行いをしていた人々です。そしてテサロニケ教会の中に、まだそれまでの生活を変えず、みだらな行いをし続けていた人々がいたのです。このような人々への戒めをパウロは語っているのです。したがって「みだらな行いを避けよ」という言葉は、救われてもなおそれまでの生活を続けることへの警告の言葉なのです。またパウロは4節において、より積極的な面から結婚関係を尊ぶように教えています。弱い立場にある妻が尊敬されるべき関係として結婚関係が記されています。互いに高め合う関係がここで勧められています。この正しい結婚関係を規範としてあらゆる兄弟姉妹の関係を結ぶことが、パウロの願いの究極的な目標でありました。したがって、ここでの戒めは、性関係のことだけにとどまらず、より広い視野で理解する必要があります。神を信じる前に慣れ親しんだ生活を変えること、そして互いに高め合う兄弟姉妹の関係が結ばれること、これらを促す戒めなのです。続いて6節も見てまいりましょう。「踏みつける」も「欺く」も、隣人を押しのけて、自分の利益を貪る行為を意味しています。異邦人社会では、これらは当然のように行われていました。神に救われて取り分けられたあなたがたは、もうそのような生きかをしてはならないとパウロは戒めているのです。

 ここまで、聖なる者として歩むためにパウロが与えた具体的な戒めを見てきました。ここで彼が重視しているのは、兄弟姉妹の関係です。パウロのいう聖なる者とは、兄弟姉妹が互いに尊敬し合い高め合う関係を結ぶことの上に成り立つものなのです。大切なのは、神に取り分けてもらった兄弟姉妹との交わりなのです。しかもパウロはこのことを、人間の道徳ではなく、神との関係において語っています。6節の最後でパウロはこう書きます。

「主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。」

ここで罰を与えるとは、正義と秩序維持のための行為を意味する言葉です。ここでも問題にされているのは交わり、特に秩序ある教会の交わりです。神は教会の秩序を建て上げられるお方です。ですから神を信じている者は、教会の交わりを軽視できないのです。続いてパウロは7節で、神からの召しにテサロニケ教会の兄弟姉妹たちの目を向けさせます。その召しとは彼らが汚れた生き方ではなく、聖なる生活をすることです。繰り返しになりますが、これは「綺麗」・「汚い」の問題ではありません。神に用いていただける生活かどうかの問題です。汚れた生き方とは、神を信じる前の生活を継続することです。聖なる生活とは、兄弟姉妹を高め合い大切にしあう関係です。どちらが神に取り分けられた者の生き方か、言うまでもないでしょう。最後の8節において、パウロはこれまで記した自らの警告について念押しをします。テサロニケ教会において神を信じる前の生活を継続していた人々は、自分が神を拒んでいるとは思っていませんでした。しかし聖なる生活を拒否する者は、聖霊を与えてわたしたちに聖なる生活をさせてくださる神を拒むことになるのです。自分の思いではなく、聖霊を与えてくださる神の御心に目を向けること。これが聖なる生活を営むということなのです。

 

 ここまで、聖なる者の聖なる生活について見てきました。この生き方の土台にあるのは、1節にある「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」という言葉に集約されているように思います。わたしたちを愛してくださった神の御心のために歩むこと。この神に喜ばれるために歩むこと。これが今日の箇所において求められています。「大好きな人に喜ばれたい」という思いは、恋愛したことのある方であれば誰でも経験があるでしょう。まさにこれです。大好きな神様に喜んでいただくために、兄弟姉妹を愛し、教会の交わりを愛すること。これこそ、聖なる者の聖なる生活なのです。