聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一5章1~6節
光の子として生きる
今日の箇所でパウロは、その時と時期について取り上げます。その時と時期とは、主の日が来る時と時期のことです。主の日とは、神の御心が完全にあらわされ、それに従って神の裁きが行われる日のことです。このように教えられますと「その主の日が来るのは、いつなのか」という問が浮かんできます。この点について、聖書の教えは一貫しています。それは、主の日が来るときは誰も知らないということです。主イエスご自身もおっしゃっています(マルコ13:32)。このことをパウロは2節で「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」と書いているのです。だから、いつも目を覚まして備えている必要があります。まだ主の日は来ないと大丈夫と安心して、怠惰になってはならないのです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているやさきに破滅が襲うのです。なお、「無事」とは「平和」を意味する言葉です。
さて、ここで一つ考えたいことがあります。「無事(平和)だ、安全だ」と言っている人々とは、いったい誰なのでしょうか。旧約聖書において、実は神の民イスラエルがこれと同じ類の言葉を言っています(エレミヤ書6章14節)。彼らの置かれた状況は、決して平和と呼べるような状況ではありませんでした。それにもかかわらず神の民は『平和、平和』と言っていたのです。つまり彼らは『わたしたちには、神の平和があるから大丈夫』と安心し、何一つ悔い改めることはなかったのです。その結果、バビロン捕囚という破滅が彼らを襲ったのです。このことを見ますと、今日の箇所の3節で「無事だ、安全だ」と言っているのは、教会の中にいながら安心しきって悔い改めない人々のことであることが分かってきます。このような人々に、主の日は破滅をもたらすのです。これは妊婦に産みの苦しみのように、いつ来るか分からないけれども必ず来て、決して逃れることはできないのです。
本来であれば、主の日とはすべての人間に破滅をもたらす日です。なぜなら我々は皆、神の裁きに耐えることのできる者ではないからです。しかし主イエスは、人の子の前に立つときにはこの日の破滅から逃れることができることを示唆しています(ルカ福音書21章35節~36節)。人の子とは、主イエスご自身のことです。さらに言うならば、十字架の主イエスのことです。十字架の主イエスの御前に立たされて、自らの罪を心から自覚し悔い改めるときには、もはや主の日がその人を盗人のように突然襲うことはないのです。主の日には、わたしたちは天から降られた主イエスの御前に立たされるのです。そのまえにあらかじめ、本来は滅びるべき罪人として十字架の主イエスの御前に立ち、悔い改めてそれまでの歩みを変えるならば、もはや主の日の裁きが襲うことはないのです。このように主イエスの御前に立たされて歩む者を、パウロはここで光の子と記しています。
ではテサロニケ教会のなかに光の子と、闇の中にいるものの両方がいるのでしょうか。パウロはそのように理解していないようです。5節において、テサロニケ教会の兄弟姉妹すべてを光の子、昼の子と呼んでいるからです。教会に属し、信仰生活を送っている者は、皆が十字架の主イエスの御前に立って罪を告白し、罪赦されてキリストに結ばれた者ですので、光の子なのです。だから「自分は救われたから大丈夫」と安心しきって怠惰になったり傲慢になったりするのではなく、光の子として相応しく歩むことが当然なのです。いつ主の日が来てもいいように落ち着いて生活すること。このような、少々地味かもしれませんが地に足をつけた堅実な歩みが、光の子として相応しい歩みなのです。またテサロニケ教会の兄弟姉妹が、光の子であるとともに昼の子とも呼ばれています。昼とはギリシャ語で「ヘーメラ」という言葉です。また「主の日」は、「主のヘーメラ」という表現で記されています。「主のヘーメラ」の説明の中で、「あなたがたはヘーメラの子なのだ」とパウロは書いているのです。ですから昼の子とは、主の日の関係者、主の日のために仕える者であるということです。主イエスを信じて、光の子、昼の子として歩むキリスト者にとって主の日は、今とは全く関係のない遠い未来の出来事ではありません。主の御前に立つ光の子の現在の歩みは、主の日を指し示すことになります。主の日には、皆が主イエスの前に立つことになるからです。
主の日にはわたしたちの救いが完成するだけでなく、この世界全体が主の御心にかなったものとして完成します。主の日の関係者である光の子の歩みは、この御業のために用いられるのです。仕事も、近所の人に挨拶することも、夕食を作るために大根を切ることも、すべてがそうです。わたしたちがそれを光の子としてそれをするとき、それがどんな小さな業であっても決して無意味なものはありません。それは必ず世界の完成という神様の素晴らしい御業のために、価値あるものとして用いられるのです。今はちょうどノーベル賞受賞者が発表されている時期です。ノーベル賞のような偉大な業績を残したとしても、後にそれを超える業績がなされたならば次第に注目されなくなっていきます。人間の力でなす業は、時代を超えて永遠に価値を持ち続けることはできません。しかし、わたしたちが光の子として生きることは、それがどんなに小さなことであったとしても、主の日に用いられるのですから時代を超えて永遠に価値を持ち付けるのです。光の子のすることに無価値なことは一切ありません。まして、光の子は誰一人無価値な存在ではありえません。わたしたちはすべて光の子です。神の御前に尊い価値を持った存在なのです。だからこそ怠惰になって、無価値な歩みをしてはいけないのです。ノーベル賞よりもはるかに尊い価値を持った「光の子としての歩み」を、今週も共になしていこうではありませんか。