聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一5章16~22節
いつも、絶えず、どんなことにも
16~18節は、この手紙のなかでも多くの人々に親しまれている御言葉でありましょう。その反面、実際に実行することは困難を伴う御言葉でもあります。常識的に考えますと「そんな無茶な」と言わざるを得ない命令を、ここでパウロが命じています。なぜこれらが命じられているのでしょうか。これが、神の御心だからです。先週わたしたちは、教会が神の御心を追い求める場所であると学びました。そして教会の追い求めるべき神の御心が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という命令に集約されているのです。
具体的な内容を見てみましょう。まず喜びについてです。テサロニケ教会は、むしろ深い悲しみのなかにありました。教会のなかに、すでに息を引き取った兄弟がいたからです。「その悲しみの中にあっても、喜びを忘れないように」とパウロは命じているのです。死という大きな悲しみのなかでも、なお見出すことのできる喜びがあります。それは死んだ兄弟と共に、確かに神の救いに与っていることです。この喜びを、どんな状況にあっても失わないこと。これが「いつも喜んでいなさい」の中身なのです。
次に、祈りについてです。祈りとは、神との対話であり、神との関係の中に入るということです。また祈りは、神の御意志に一致することのためになすものです(ウェストミンスター小教理問答の問98参照)。絶えず祈ることとは、神の御心を求め続けることです。それは、神の御心を追い求める教会の歩みそのものです。
最後に、感謝についてです。テサロニケ教会の置かれた状況は、とても感謝できるようなものではありませんでした。しかし、パウロ自身がこの教会のことを「感謝している」と書いています(1:2と2:13)。ここでの感謝の対象は、テサロニケ教会の迫害に負けない姿によって、神の働きが示されていることです。教会において感謝することは、結局これしかないのだろうと思うのです。わたしたちは、直接的には苦境の克服や病の癒しなどさまざまなことに感謝します。しかし大切なことは出来事の結果そのものに感謝するのではなく、その背後で神が働いてくださっていることに感謝するということです。その神の働きは、わたしたちが将来与えられる救いの完成に向かっています。結果がよく見えても悪く見えても、それはわたしたちの救いの完成につながっています。だから、どんなことにも感謝することができますし、感謝しなければならないのです。
さてパウロは、16~18節にある神の御心をなすために教会がなすべきことを19節以降で具体的に記しています。まず初めに「霊の火を消してはいけません」とパウロは記します。教会に結ばれている者一人一人に与えられている御霊の火を消してはならないと命じられています。霊の火を消すとは、信仰者の歩みをやめるということです。注意を払うのは、自分の霊の火だけではありません。他の人の霊の火を消してはいけないのです。誰かが信仰から離れてしまうような言動をしてはならないのです。2章15節以降に記されているユダヤ人たちが、このような行動をしてしまいました。彼らは非常に信仰熱心であったがゆえに、他の人の不信仰を批判し、その人の霊の火を消してしまったのです。同じことが、教会の中で起こりうるのです。しかしそれでは、喜びも感謝もあったものではないでしょう。
続いて命じられていますのは「預言を軽んじてはいけません」です。預言とは、教会で語られている神の言葉のことです。それを軽んじるということは、神の言葉よりも自分の考えを優先するということです。神の御心を追い求める教会において、神の言葉よりも自分の考えを優先することがあってはならないのです。しかし続けてパウロは、教会で語られた言葉を吟味するようにとも命じます。当時、テサロニケ教会には偽の教師がいたからです。教会で語られた言葉が、神の御心にかなったものか吟味する必要があるのです。その基準は「イエスは主である」と示すものかどうかです(一コリント12:3参照)。主とは、神の名ですから、イエス・キリストが神であると示す教えこそが、わたしたちの大事にすべきものです。つまりキリストが神であるということが大切なのです。結局、教会が教会であるために大切なことは、イエス・キリストを神とするキリスト教会であることです。これは教会にとっての命です。当たり前のことですが、ときに教会はキリストを神とせずキリスト教でなくなってしまうときがあるのです。そのとき、教会はいったい何教になるのでしょうか。自分を神とする自分教になるほかありません。キリスト教を信じていると言いながら、自分を神として自分の思いを突きとおすならば、それは自分教です。これこそが、パウロが禁じている霊の火を消す生き方であり、預言を軽んじる生き方です。自分教であるかぎり「いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝すること」は不可能です。神である自分が傷つけられたら、喜ぶことも祈ることも感謝することもできなくなってしまうからです。そして自分教である以上、自らの死に関して喜びや感謝を見出すことは不可能なのです。死は、自分教において“神が滅ぶ”出来事だからです。
教会がキリスト教会であるときにのみ「いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝すること」が可能となります。だからこそパウロは、この生き方を「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」と記すのです。わたしたちの教会がキリストを神とするキリスト教会であるならば、このパウロの命令は、わたしたちのうちに確かにその姿をあらわすのです。