2018年12月2日礼拝説教 「神の国の近づきを悟れ 」

 

聖書箇所:ルカによる福音書21章25~33節

神の国の近づきを悟れ

 

 この御言葉の主たる関心事は、主イエスが終わりの日に再び来られるときのことです。“再び”と言われていますから、すでに来られた一回目があります。それがクリスマスです。ですからアドベントのこの時期に、この御言葉に聞くことが大きな意味を持つのです。かつての神の民が救い主を待ち望んだように、わたしたちは主イエスが再び世に来られるのを待ち望んでいるのです。信仰者とは、信仰をもって待ち望む者なのです。

 今日の箇所において、主イエスは世の終わりにおける太陽と月と星の徴について言及されています。これは、旧約聖書の中の主の日に関する記載からの引用です。ですから主イエスの言葉を聞いた人々は、太陽と月と星の徴と聞いただけで、それは主の日のことだ、世の終わりのときのことだと分かるわけです。まさにそのときに、人の子すなわち主イエスご自身が来られるのです。この日、信仰者であるか否かにかかわらずすべての人々が、救い主イエス・キリストが来られるのを見るのです。ではすべての人々が喜びをもって救い主を迎えるのでしょうか。そうではないようです。この日、諸国の民が不安に陥り、おびえ、恐ろしさのあまり気を失うのです。それは様々な徴を見ても、彼らはその後この世界に何が起こるのか分からないからです。様々な徴を人々が見たときに、それまで確かだと信じていたことが揺らぎ、確かではなくなるのです。それゆえに諸国の民は、気を失うほどの大きな不安に陥るのです。主イエスは、人々との会話のやり取りの中でこの言葉を語られました。そのやり取りは、21章5節から始まります。ある人たちが、神殿の建物の立派さに見とれ、そのことについて話していました。この当時、この地はローマ帝国の支配下にありました。この政治権力のもとで、立派な神殿が維持されていました。神殿の立派さは、その当時の政治支配の確かさの象徴ともなっていたわけです。しかしそのようなものは、崩れ去ると主イエスはおっしゃられました。ではそのときにどのような徴が起こるのかと人々が主イエスに聞き、その答えの中で今日の御言葉が語られています。今日の御言葉において不安に陥っている諸国の民とは、そのときの政治支配が確かだと信じ、それに頼り切っていた人々です。そのような人間による支配が、様々な徴の後に主イエスの支配に転換されるのです。それが主の日でありますし、また31節で語られている「神の国」なのです。

 さて主イエスは主の日が来る様子を教えられたあと、わたしたちが取るべき行動を28節で教えられます。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げよと主イエスは教えられます。では、“このようなこと”とはいったいなにを指すのでしょうか。文の流れからすると、直前の27節に記されている人の子が来る様子を見たときを指しているように見えます。しかしそのときはすでに「解放の時」です。わざわざ「解放の時が近い」と言われていますので、終末の徴が起こり始めたときのことを言われているのです。主イエスは、終末の徴について12~17節で具体的に示しています。そのときに起こることは、信仰者への迫害です。これが起こり始めたら、あなたがたの解放の時が近いのだから、身を起こして頭を上げよ。主イエスはこのようにおっしゃられるのです。

 このことを教えるために主イエスはいちじくの木のたとえを話されました。木に葉が茂るのを見たならば、夏が違いことは誰の目にも明らかです。同じように、終末の徴すなわち迫害が起こり始めたのを見たならば、解放の時すなわち神の国が近いと知りなさいと主イエスは教えられるのです。このたとえで重要視されているのは、見ることです。見なさいと言われています。終末の徴が信仰者の迫害であるとするならば、むしろキリスト教が起こって以来、それはずっと現れ続けています。なによりも主イエスご自身が迫害によって十字架にかけられて殺されたのです。ですからこの御言葉は「いま迫害の中にあるが、神の国が近いのだから身を起こして頭を上げよ」と語り掛けるのです。これが、主イエスを待つ者の取るべき姿勢です。そうはいいましても、迫害という困難な状況のなかにあってもなお揺らがないものをわたしたちのうちにもっていないと、わたしたちはすぐに恐れや不安に陥ってしまうのです。そうならないために、主イエスは32~33節の言葉を語られます。ここで「滅びる」とは本来は「過ぎ去る」という意味の言葉です。主イエスは、終末の徴がどの時代にも当たり前のように起こる中で、ご自身の言葉は決して過ぎ去ることはないと言われます。この約束があるからこそ、信仰者は困難な状況にあっても身を起こして頭を上げることができるのです。 アドベントのこのとき、わたしたちもこのような姿勢でクリスマスを待ち望みたいのです。今のわたしたちも、終末の徴のなかにあります。ときに他の人からの無理解に直面することがあります。わたしたちが信仰に生きようとすれば、必ず困難にさらされるのです。わたしたちの周りにも多くの困難があり、終末の徴があふれています。そういったことから目を背けて、ただ楽しい思いだけでクリスマスを待ち望むことは相応しくないのです。主イエスは言われます。見なさい、と。わたしたちに与えられた困難を、終末の徴を見なさい、と言われます。何よりも主イエスご自身が苦難にあわれ、十字架にかかられて、終末の徴をお見せになりました。この徴を経て、主イエス・キリストは来てくださるのです。神の国は来るのです。

 

 主イエスは、ご自身の言葉が確かであることを宣言されました。だからこそ、苦難の中にあっても身を起こして頭を上げよ。主イエスはこのように命じておられるのです。身を起こし頭を上げて、主イエスが来られるのをわたしたちも待ち望もうではありませんか。