聖書箇所:ルカによる福音書3章15~18節
わたしよりも優れた方が来られる
洗礼者ヨハネが、民衆にした説教を記した御言葉です。ここで洗礼者ヨハネは、主イエスのお働きに先立って準備をした人として記されています(3:4~6)。神から離れてしまった人々を、主イエスの御許へと立ち帰ることができるように準備をした人物、これが洗礼者ヨハネです。18節においてヨハネはさまざまな勧めをして、福音を民衆に告げ知らせたと記されています。今日の箇所において、ヨハネの語った福音が特に現れているところは「わたしより優れた方が来られる」という部分でありましょう。ヨハネのこの言葉は、民衆が心に抱いていた「もしかしたら洗礼者ヨハネがメシアではないか」という期待に対して語られています。民衆が旧約聖書に記されたメシア(すなわち救い主)を待ち望んでいたことがわかります。しかし彼らが旧約聖書の示すとおりのメシアを待ち望んでいたわけではないようです。民衆は世の財産に執着していた人々であることが7節以降を見ると分かります。そのような彼らは、それまでの自分たちの歩みを肯定して、いまのままでいいよと背中を押してくれるような救い主を望んだでありましょう。往々にしてそのような救い主を、人々は待ち望むのです。それに対してヨハネは、「わたしよりも優れた方が来られる」というのです。
メシアがヨハネよりも優れている点について、ヨハネは自分とメシアとの絶対的な差を語ります。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない、と。この当時、履物のひもを解くのは、奴隷のなかでも特に身分の低い者だけがする仕事でありました。そんな身分の低い奴隷の仕事すらもする価値がないほどの格の違いが、自分とメシアとの間にはあるのだとヨハネは教えるのです。これが現われるのが、洗礼です。洗礼者ヨハネが洗礼において用いていたのは水です。しかし来るべきその方は、聖霊と火によって洗礼を授けられるのです。聖霊とは、わたしたちのうちに働かれる神御自身です。また火は、金属を精錬する火です。火によって金属の不純物が取り除かれていくように、洗礼を受けた者が神の御心にかなうものとして清められていくのです。聖霊にしろ、火にしろ、これらはそれを受けた者の生き方の変革をもたらすものです。水の洗礼は、聖霊と火による洗礼を指し示しているにすぎません。実際に人の生き方を変革する力をお与えになるのは、メシアなのです。ここに、水で洗礼を授ける者と、聖霊と火によって洗礼を授けるメシアとの間に大きな違いがあるわけです。
続いてメシアの働きが、脱穀場での様子をとおして教えられています。これは終わりの日における裁きのことです。17節に「手に箕を持って」とあります。箕とは脱穀した穀物から、食べることのできる実と、役に立たないもみ殻をふるい分けるための道具です。終わりの日における裁きとは、このふるい分けの作業に相当します。実として残った部分は大切に集められて倉に入れられ、そうでないもみ殻は消えることのない火で焼かれてしまうのです。良い実を結ぶことの大切さを、ヨハネは民衆に教えています。
さて、メシアによる終わりの日の裁きを、脱穀された穀物をふるい分けに例えてヨハネは語っています。そうであるならば、終わりの日が来る前の地上の歩みは、脱穀の時が対応するでありましょう。脱穀とは、実からもみ殻を外す作業です。当時は麦を打ったり、鉄のローラーで麦をつぶしたりして脱穀しました。地上での信仰者の歩みは、叩かれ潰される、痛みを伴うものなのです。信仰者の痛みが脱穀であるならば、なぜ神に愛されているはずの信仰者に痛みがあるのかが見えてまいります。それは、もみ殻を外して、実を残すためです。もみ殻とは何でしょうか。信仰者が救われながらも、なお持っている神の御心にかなわない部分、罪の残り滓です。これが外れて残った実は、終わりの日にちゃんと集められて倉に納められるのです。もみ殻がついたまま、神に受け入れられることはないのです。もみ殻は外されなければなりません。そのためには、どうしても痛みが伴います。ときに涙をながすときもあるでしょう。しかしこういった痛みや涙を経て、信仰者は、神の御心にかなう者として清められていくのです(ヘブライ12:5~6も参照)。しかし一方で、脱穀の痛みの中に置かれている信仰者は、メシアから聖霊と火で洗礼を授けられた者でもあります。聖霊を受けている以上、どれほどの試練に打ち叩かれたとしても、それに耐えて実を残すことができるのです。その力が、聖霊にはあるからです。聖霊と火による洗礼は、試練に打ち勝つことのできる保証です。
わたしたちもしばしば、民衆のように、自分に都合のよい救い主を待ち望みます。自分についているもみ殻をそのまま肯定してくれる救い主を求めるのです。しかしヨハネは言います。「あなたがたが考えるよりも優れた方が来られる」と。クリスマスに来てくださったメシアは、わたしたちが自分の都合で望むような救い主よりも、はるかに優れた方です。真の救いを与えるお方です。このお方は、わたしたちが脱穀の痛みに耐えることのできる力をお与えになるお方です。こうして、わたしたちから確かにもみ殻を外されるお方です。このお方が、アドベントにわたしたちが待ち望んでいるメシア、主イエスキリストです。残念ながら主イエスは、わたしたちの思い浮かべるような都合の良いメシアではありません。しかし、わたしたちが思い浮かべるよりもはるかに優れたお方です。この方は、わたしたちの期待とは全く異なる方法によって救いへと導かれます。洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる」と教え、福音を告げ知らせました。この嬉しい知らせを、わたしたちも告げ知らせようではありませんか。人の思いをはるかに超えた救い主キリストが、クリスマスにお生れになったのですから。