聖書箇所:ヨエル書3章1~5節
御霊を受けよ 御名を呼べ
今日の御言葉は霊の注ぎを預言する言葉です。これは使徒言行録に記されているペンテコステと深い関係を持つ箇所です。ここに教会の原点があると言ってもよいでありましょう。今年最後の今日の礼拝において、わたしたちが教会に結び合わされている意味について、この御言葉から学びましょう。
今日の箇所は「その後」という言葉から始まっています。1章と2章で記されている事柄が前提となっています。ここには、①神の民が置かれた悲惨な状況、②神への立ち帰りへの招き、③立ち帰った後に約束されている神の救い、の三つが主に記されています。まずは、①について見てまいりましょう。はじめに、いなごによる荒廃の様子が記されています(1:4以下)。これにより、人々は飢えの問題に直面することになります。この問題が、一つの国民が攻め上って来ることによって引き起こされるのです。他国に攻められることの苦難は様々ですが、ヨエル書が中心的に描くのは飢えの苦難です。心の痛みではなく、物質の不足による痛みです。人間のあらゆる痛みや悲惨は、人間が神から離れてしまった罪にその発端があります。これがもたらすのは、心の痛みだけではありません。物質の不足、ここでは特に食べ物がないという飢えの苦しみが、人間の罪のゆえに引き起こされるのです。それゆえに、食べ物の不足に対しても神への立ち帰りが求められるのです(2:12以下)。特に2:13では、衣ではなく心を引き裂くよう命じられています。神の民イスラエルは、見かけのうえでは神に従うような行動をしながら、実際には飢えた者や弱い者に憐みをかけることをせず、神の御心とかけ離れた行動をしていたのです(イザヤ書58:4~7参照)。ヨエル書が描く食べ物の不足の苦しみは、直接には他国が攻めてくることによってもたらされます。しかしその根本は、飢えている者に憐みをかけず食べ物を与えなかったイスラエルの民自身の罪によって引き起こされたものなのです。そのような人々に対して、形だけではなく心から神に立ち帰ることが求められているのです。これが、弱い者や貧しい者への配慮を含んでいることは明らかです。したがって、人々が心から神に立ち帰るならば弱い者や飢えている者への配慮がなされ、物質的な不足をも満たされていくのです。神様の救いの御業は、何よりも神に心から立ち帰った人々によって実現していくのです。それは心の救いだけでなく、食べ物の不足が満たされることをも含みます。食べ物の不足だけではないでしょう。あらゆる現実問題(経済問題、人種問題、災害における苦しみなど)も、人々が心から神に立ち帰ることによって満たされていくでありましょう。来るべき主の日の救いの姿には、これらも含まれるのです。
そのうえで、3章の言葉が語られます。神様が救いの御業をなされた後に、すべての人にわが霊を注ぐと言われます。旧約聖書において神の霊の注ぎとは、神の力を受けることを意味します。神の霊を受けた者の力ある行動をとおして、神の御業が示されるのです。この箇所においては、神の霊を注がれた者が預言し、夢や幻を見ています。これらはいずれも、神様が御意志を示されるときに用いられたものです。しかし神様はごく一部の人々にのみ、これらをとおしてご自身の御意志を示されました。ですから多くの人々は、神様の御意志を示された人々に仲介してもらわなければ、神の御心を知ることができなかったのです。しかし、来るべき主の日が来たならば、すべての人にわが霊を注ぐと神様は言われます。性別・年齢・地位といった人間社会に横たわっている差別に関係なく神様の霊が注がれます。すべての人が神の御心を直接知る者とされるのです。そして、神の御意志を他の人々に仲介して伝える者とされるのです。このようにして、まだ救いに与っていない人々に神様の御意志が伝えられるのです。このようにして神様の御意志を知り、それを受け入れて主の御名を呼ぶ者は皆、救われるのです。この様子がここで預言されているのです。時至ってペンテコステの出来事によって、神様による霊の注ぎは現実のものとなりました。この出来事の後、神の霊を受けた者によって福音が異邦人を含む全世界へと広がっていったのです。それはわたしたちのところにまで及びました。わたしたちは主の御名を呼んで救われたのです。そして今度はわたしたちが主の御意志を知らせる者とされたのです。ここに示されているのは、教会の伝道です。
この伝道は、決して目に見えない心の救いだけをもたらすものではありません。目に見えるこの世界のあらゆる問題にも、関わることなのです。それ故に、目に見える現実的な問題を無視した伝道はありえません。伝道と聞くとわたしたちは、「どう相手に伝えるか」という知識の伝達だけに目がいきがちです。しかしわたしたちが伝道しようとしている人々が抱えている悩みや苦しみに目を向けず知識だけを伝えようとするならば、それはヨエル書に示されているような物質をも満たされていく神の救いの姿とは異なるのです。神様は、目に見えること、また現実の生活を決して軽んじられるお方ではありません。世における様々な問題を無視するお方ではありません。それらのことに対しても癒しを与え、満たされる御意志をもった方です。この神様の救いの御業は、浜松教会の歩みにも示されています。伝道開始して51年間、目に見える多くの不足があるなかで、会堂、兄弟姉妹、牧師を目に見える形で与えてくださいました。わたしたちが与えられ、また世に伝える救いは、決して浮世離れしたものではないのです。人々が世で直面するあらゆる問題を満たすものです。どんな知識人でも、偉大な政治家でも解決できない世界の悲惨を癒やす力があります。わたしたちはこの救いを伝えるべく神の霊をいただきました。ですから、人々の目に見える不足・悲しみ・悲惨に寄り添う教会として、新しい年を共に歩んでいこうではありませんか。