2019年1月6日礼拝説教 「主イエスの証人となる」

 

聖書箇所:使徒言行録1章1~8節

主イエスの証人となる

 

 使徒言行録は、ルカ福音書の続きとして記された書物です。テオフィロという人物に宛てて書かれました。この人が実際に存在した人物なのか、ある人々を総称しているのかは分かりません。しかし少なくとも、主イエスに関する様々な教えを受けている人でありました。その人に対して、あなたの受けた教えが確実なものであることが分かるように、順序正しく書きますね、と記してルカ福音書が書き始められています。そして第一巻を書き終えて、第二巻の冒頭に記されているのが今日の箇所です。冒頭には第一巻であるルカ福音書で書かれた内容の要約が記されています。ここから、ルカ福音書が主イエスの地上のご生涯との関連で書かれたことが分かります。地上のご生涯において、主イエスは聖霊をとおして使徒たちに指図をお与えになられました。その教えが現実の世の中でどのような影響をもたらしたのか。そこで聖霊はどのように働いたのか。これらを記したのが、使徒言行録です。それゆえに使徒言行録に記されている聖霊の働きは、ルカ福音書に記された主イエスの教えと密接不可分です。

 このような背景から、3節以降では主イエスによる聖霊の約束が記されます。主イエスは十字架の死の苦難ののち、数多くの証拠をもって御自分が生きておられることを使徒たちにお示しになられました。また、神の国について彼らに話されました。そして主イエスが使徒たちと食事を共にしていたときに、「エルサレムから離れず父の約束されたものを待つように」と命じられます。そして聖霊による洗礼が授けられることをお示しになられました。この霊の注ぎをとおして、主イエスの教えがこの世界において現実のものとなっていくのです。この聖霊による洗礼は、「父の約束」に従って授けられるものであると主イエスは使徒たちに教えられました。父の約束は、旧約聖書に記されている神の約束に基づくものです。その一つが、神がダビデ王に対してなされた約束です(サムエル下7章参照)。9節にあります使徒たちの質問は、このダビデへの約束との関連で問われています。旧約聖書において約束されたメシアが主イエスであることを、このとき使徒たちはみんな理解していました。ですから、主イエスが聖書の約束に基づいてすぐにでも王となられ、神の御力によってダビデの王国が建て直されるのではないか。このような期待を使徒たちが持つのは当然です。この問いに対して、主イエスは7節の言葉をお答えになりました。使徒たちの問いを全否定しているわけではありません。それは使徒たちの質問が、聖書に書かれた約束に基づく問いだからです。聖書に書かれた約束に基づいて、イスラエルの国は建て直されるのです。ただその時と時期は、父なる神の権威に属することであり人間が知ることのできる領域ではないのです。また時と時期は、どちらも複数形で語りなおされています(英訳聖書参照)。イスラエルの国は、神の国という形で様々な時と時期を経て、だんだんと建て直されていくのです。では、どのようにしてそれが起こるのでしょうか。それが8節の内容です。この言葉に従って、エルサレムからサマリアの全土へ、そしてさらに異邦人の世界へと福音が広がっていく様子が、使徒言行録に記されています。8節の言葉は、使徒言行録全体の目次の役割をはたしているのです。人々に聖霊が注がれて主イエスの証人とされ、世界中に広がる様子がこの書物に記されています。この内容のゆえに、使徒言行録という書物は決して自分とは関係のない過去のお話として読むことはできません。わたしたちも主の証人であり、この使徒言行録に記されている物語の登場人物なのです。もちろん直接この書にわたしたちの名前が出てくるわけではありません。しかし、この物語の延長線上に、いまわたしたちは立っているのです。

 

 それでは証人とは、どのような人でしょうか。国語辞書によりますと「何かの事実を証明する人」と説明されています。ギリシャ語では「マルチュース」という言葉が対応しますが、この言葉は早くから殉教者を意味する言葉として用いられました(使徒22:20参照)。ですから聖書にある「証人」とは、殉教してでも、不利益を被ったとしても「何かの事実を証明する人」です。前川喜平氏が「あったことをなかったことにはできない」と語られていました。証人を動かすのは、この言葉だと思うのです。たとえ周りの人々から口を閉ざされようとも、実際にあった事実を語らずにはいられないのが証人です。主イエスの証人も同じです。主イエスは、数多くの証拠をもって御自身が死んで復活されたことをお示しになられました。これは、罪を赦して救いに入れてくださる神の恵みが確かであるということです。この恵みをいただいた主イエスの証人は、受けた恵みをなかったことにはできないのです。ですから主イエスの証人であるためには、「受けた恵みをなかったことにはできない」と言えるほどに救いの恵みを喜ぶ者であることが大切です。皆さんの信仰生活は、喜びにあふれていますか? また主イエスの証人である以上、主イエスの救いの御業を目撃しなければなりません。その中心は洗礼と聖餐の礼典です。洗礼においては、主イエスの救いの御業が水の洗いという目に見える形で明らかにされます。聖餐においては、パンとブドウ酒をとおして主イエスの十字架と復活の御業が明らかにされます。4節を見ますと、主イエスが使徒たちに聖霊の注ぎを約束された場所は、食事の席においてであることが記されています。使徒たちは主イエスと共にする食事の席において聖霊の注ぎが約束され、この食事の席から主イエスの証人として世に派遣されていきました。わたしたちも聖餐式において、使徒たちと同じように主との食卓を囲みます。救いの恵みを受けたわたしたちは、聖餐の食卓の席から主イエスの証人として世に遣わされていくのです。