2019年2月10日礼拝説教 「あなたがたがイエスを十字架につけた」

 

聖書箇所:使徒言行録2章14~36節

あなたがたがイエスを十字架につけた

 

 今日の箇所は、ペンテコステの出来事を見聞きして様々な反応を示す人々にペトロが語った説教です。ペトロが語る相手は、旧約聖書を受け入れていた信心深いユダヤ人たちでした。ペトロはまず13節のあざけりを否定します。そしてペンテコステの出来事を、旧約聖書にあるヨエル書の預言(ヨエル書3章)の成就として説明するのです。

 22節からが、ペトロによる聴衆への語りかけです。まずペトロは、ナザレの人イエスこそ神から遣わされた方だと語ります。「ナザレの人イエス」とは、主イエスをメシアと信じていない人々が主イエスを呼ぶ際の呼び名です。ペトロの説教を聞いている人々は、イエスが神から遣わされた方だとは信じていませんでした。彼らにとって主イエスはまさに「ナザレの人イエス」だったわけです。あなたたちがナザレの人イエスと呼ぶこの人こそが、神から遣わされた方なのだとペトロは示すのです。続く23節で、ペトロは主イエスの十字架に言及します。これは当時のユダヤ人たちがなしたことであると同時に、神の御計画でもありました。この御計画にしたがって、神はこのイエスを三日目に復活させられました。主イエスの復活が神の御計画であったことを、25節以降でペトロは旧約聖書のダビデの言葉を用いて示します。聴衆はみんな信心深いユダヤ人ですから、旧約聖書が大いに説得力を持つのです。25節~28節にかけて、ペトロは詩編16編のダビデの詩を引用します。特に27節の言葉から、主イエスの復活を示そうとしています。しかしこの言葉を単純に引用するだけでは、主イエスの復活が神の御計画であったことを示したことにはなりません。なぜならダビデはここで「わたしの魂」と語っており、ダビデは自分についてこのことを語っていると理解することもできるからです。言葉の上では、そのように理解する方がむしろ自然でありましょう。しかしそうではないのだとペトロが語るところが、29節以降です。その理由は、ダビデ自身は死んで葬られ、彼の墓があったからです。現在この場所は分かりませんが、当時はダビデの墓だと言われた場所があったようです。それゆえに、27節がダビデ自身のことを言っているのではないことは、誰の目にも明らかです。このダビデは預言者でもありました。そして神御自身が、「あなたから生まれる子孫の一人をその王座に着かせる」と約束されました(サムエル記下7章参照)。ここから人々は、神が選ばれるダビデの子孫の一人をメシア(ギリシャ語でキリスト)と呼びまして、その誕生を今か今かと待っていました。ダビデはこのキリストの復活を前もって知り、この詩編の言葉を語ったとペトロは説明します。結局ペトロは、来るべきキリストは復活されるお方だということを旧約聖書から示したのです。だからこそ32節で、わたしたちは主イエスの復活の証人だと言うのです。それだけにとどまらず、復活された主イエスは神の右に上げられて世界をご支配する座に着かれました。そしてその座から、約束された聖霊を注がれたのがペンテコステです。ですからペンテコステとは、主イエスが神の権威によって世界の御支配を始められたことの証明でもあるのです。ペトロはこのことについても34節と35節において、旧約聖書を引用しながら聴衆に示しました。

 復活されたナザレのイエスこそがダビデに約束されたメシア・キリストであること、そしてこのイエスが神の権威で世界の御支配を始められたことが、35節までで示されました。そのうえで、36節の結論が語られます。原文の順序に則して36節を訳すならば、こうなります。

「だから、イスラエルの全家は知れ。神は彼を、主またメシアとなされた。このイエスを、あなたがたが十字架につけた。」

ペトロの説教の結論は、「このイエスを、あなたがたが十字架につけた」です。この言葉で聴衆は、自分が絶望的な状況に置かれていることを知ったのです。なぜなら、自分たちが十字架につけたイエスが、今や神の権威で世界を御支配されているからです。イエスを十字架につけた自分は、神の敵である。そんな自分は、主イエスに滅ぼされて当然の立場にいる。彼らはそう悟ったのです。聖書の語る福音とは、このような絶望的な状況からの大逆転の救いです。自らの絶望的な状況を知ることから、神の救いは始まるのです。重要なことは、この説教を語ったペトロ自身も主イエスを知らないと言ったこと(ルカ22:54以下)によって、主イエスの十字架に加担したという事実です。

「このイエスを、あなたがたが十字架につけた」

この言葉は、わたしたちが世の人々に語るべき聖書の教えの中心的な内容です。しかしこの言葉を世の人々に語るためには、まずわたしたち自身が自分のこととしてこの言葉を受け留めなければなりません。ユダヤ人たちが主イエスを十字架につけたのは、主イエスが自らに都合が悪かったからでした。ペトロが主イエスを知らないと言ったのは、そのときの主イエスの弟子であることが自らに都合が悪かったからでした。わたしたちも、彼らと同じなのです。自らに都合の悪い御言葉を無視し、自らに都合の悪い人々を排除することによって、わたしたちもまた主イエスを十字架につけているのです。

「このイエスを、あなたがたが十字架につけた」

 

この言葉は、他でもないわたしたち一人一人に向けて語られた言葉です。主イエスを信じる信仰者であっても、罪ゆえにわたしたちは神の敵なのです。しかしそのようなわたしたちが、敵をも愛する常識外れの神の愛によって確かに救われました。この大逆転劇を、わたしたちは救いの喜びとして喜ぶのです。この喜びを、人々に伝えていくのです。