2019年3月10日礼拝説教 「持っているものをあげよう」

 

聖書箇所:使徒言行録3章1~10節

持っているものをあげよう

 

 今日は足の不自由な男が癒されるお話です。これは2章43節にある不思議な業としるしの一つでしょう。ここで癒されることになる足の不自由な男は、生まれながらにこのような状況にありました。おそらくこの人にとって、足が不自由である状態がむしろ普通であったことでしょう。それゆえに、自分が周りの人々と同じように歩けるようになるという望みは、とうの昔に諦めていたと考えられます。この男が一番に考えていることは、今という現実をどう生きるかでありましょう。幸い彼には、自分を運んでくれる人々がいたようです。「美しい門」と呼ばれるほどの門の豪華さと、彼のみじめさが対比されています。また足の不自由な者は、神殿の境内に入ることが制限されていたようです(サムエル下5:8)。宗教的にも、彼には困難がありました。ただ、彼の人生のすべてが真っ暗闇かというと、そうでもないようです。「神殿の門のそば」という場所は、物乞いをするにはうってつけの場所でした。神殿で祈るために、多くの人々が毎日通る場所だからです。祈る際には、貧しい人々に施しをすることが勧められていました。ですからこの人は、それなりの施しを受けることができたでしょう。自分は物乞いをすればとりあえず生きていける。一生、こうして生きていこう。それが自分の人生なのだ。そんな風に考えていたのではないかと思うのです。

 そんな男のまえを、ペトロとヨハネが通りがかります。彼らもまた、神殿で祈るためにその門を通るところでした。そんな彼らに、この男は施しを乞うたのです。ペトロとヨハネは彼をじっと見ました。そして彼にも自分たちを見るように求めました。お互いに見つめ合う関係をペトロはこの男に求めたのです。彼に施しをした人々は多くいたでしょうが、ペトロやヨハネのように見つめ合う関係を結ぶことを望んだ人はほとんどいなかったでしょう。おそらく彼に施しをした人々の多くは、施しをしたあと彼を気にかけることはなかったのです。しかしペトロとヨハネは違いました。彼に目を向け、彼と関係を結ぶことを望みました。こうして二人から見つめられた彼も、彼らを見つめました。彼らから施しがもらえそうだったからです。お互いに見つめ合う関係が、ひとまずここで結ばれました。ここでペトロは6節の言葉を言いました。わたしには金や銀はないと言った時点で、施しを求めていたこの男の期待は裏切られました。しかしペトロの言葉はそれだけでは終わりませんでした。ペトロの言葉のとおり、ナザレの人イエス・キリストの名によって、彼は初めて立ち上がり歩くことができるようになりました。歩くということは、彼自身がもう諦めていたことでした。金や銀による施しは期待していましたが、自分を立たせてもらうことはもう期待していませんでした。しかしそれが、主イエスキリストの名によって起こったのです。彼はただ立つだけではなく、躍り上がって神を賛美しながら神殿の境内に入っていきました。足が治りましたので、神殿の境内へと堂々と入ることができるようになりました。彼は喜んで神を礼拝する者となりました。こうして足が癒されて神を礼拝している彼を見て、人々が我を忘れるほど驚きました。この驚きは、彼の癒しそのものよりも、この出来事をとおして神の御業が表されたことによる驚きです。なお、足の不自由な者が癒される奇跡は、使徒言行録の前編であるルカ福音書に主イエス御自身の御業として描かれています。一つ例を挙げるならば、ルカ福音書の5章です。ここで主イエスは、律法学者たちやファリサイ派の人々に対して「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」(ルカ5:23)と言われ、中風の人を癒されました。この『起きて歩け』という言葉が、今日のペトロの「立ち上がり、歩きなさい」と同じ言葉です。これが何を意味するかと言いますと、主イエス御自身の御業が主イエスが天に昇られた後(すなわち使徒言行録の時代)にも続いているということです。この時代において主イエスの御業は、主イエスを信じる者が主イエスの名を呼ぶことによってなされるのです。

 さて8節を見ますと、癒された男が躍り上がったことが2度も記されています。これは、この男の癒しがイザヤ35:6の預言の成就として描かれるためです。この預言は、神が来て救いをなされるときに成就します(イザヤ35:4)。したがって足の不自由な人が躍り上がったことによって、イザヤ書で預言された神の到来と救いが起こったことが示されているのです。ですからこれは「主イエスを信じたら病気が癒される」という単純な癒し物語ではありません。そもそも今日の物語でこの男は、自分の足が癒されることを期待していないのです。なにか生活に役立つものが欲しいという期待で、この人はペトロとヨハネに目を向けました。しかしその行動によって、彼の期待をはるかに超える出来事が起こったのです。彼の足の障害は、彼と神との間の隔ての壁でした。これが主イエスの御名によって、取り除かれました。ここに記されているのは、単なる癒しをはるかに超えた救いの物語です。

 教会には、現実的な問題を抱えた人々がやってきます。多くの場合、その問題を直接解決するすべが教会にはありません。教会は現実問題を消し去るための金や銀を持っていません。でもそれでいいのです。これらの問題が消え去るよりもはるかに素晴らしい神の救いが、教会にはあるからです。この救いは、主イエスの御名によって与えられます。この御名によって救われたわたしたちに、主イエスの御名を語る務めが委ねられました。ですからわたしたちも、ペトロと同じ言葉を世の人々に語ってまいりましょう。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」

 

わたしたちが持っているのは、人々を救う主イエスキリストの御名です。