2019年3月24日礼拝説教 「神から隠れる人、人を呼ばれる神」

 

聖書箇所:創世記3章1~19節

神から隠れる人、人を呼ばれる神

 

 この物語を読むとき、多くの人々は「自分はこの人たちとは違う」と思います。聖書を受け入れている者であっても、この箇所の男と女を自分のこととして捉えているか、問われています。

 まず蛇について見てまいりましょう。蛇は古代から神として崇められていました。それゆえに蛇は、人々を引き付けてやまない異教の神や偶像を指し示す生き物です。この蛇が、主なる神が造られた野の生き物のうちで最も賢い生き物だと聖書は記します。賢いとはいえあくまで野の生き物であり、人に支配されるべき存在です。それゆえに蛇は、人に対して見かけ上謙虚に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と語りかけます。女は2~3節の言葉をこたえます。「・・と神様はおっしゃいました。」とありますが、果たして神様はそのようにおっしゃったのでしょうか。2:17と比較しますと、神は「触れてはいけない」と言っていません。また「必ず死んでしまう」との神の警告も「死んではいけないから」という言葉に変わってしまっています。神の御言葉の知識が不正確だったのです。不正確といっても、神の禁止命令を忘れたのではありません。神の戒めを過剰に厳しく捉えたのです。御言葉の知識の不正確さからくる「神は厳しすぎる」という不満。これが誘惑の足がかりとなったのです。蛇は「決して死ぬことはない。」という決定的な言葉を発っします。これは2:17の「必ず死んでしまう」という神の言葉に、notを付けた否定文です。蛇の方が人より正確に神の御言葉を引用し、それを否定します。そのうえで、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」とそそのかすのです。目が開くというのは、真理を見通す力を得るということです。それによって、良いことと悪いことを自分で判断できる。それが、神のように善悪を知るものです。神の命令にしたがって小さく生きるのではなく、自分の好きなように生きればよいではないか。神に従う立場を卒業して、自分が偉大な神になればよいではないか。結局これが人間にとって最大の誘惑なのです。そのような言葉をかけられまして、女はその木を見ます。するとその木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していました。女は、神の御言葉ではなく自分の判断基準によって食べるかどうかを判断しました。その結果、食べたのです。自分の判断基準によって食べたのは、男も同じです。神の戒めではなく、良い悪いを自分で決めたい。この思いは、はたしてわたしたちとは無関係でしょうか。そんなことは決してありません。

 神の戒めに反した人は、その後どうなったでしょうか。蛇が言ったとおり、二人の目が開けました。何が見えたのでしょうか。自分たちが裸であることを見たのです。自分が服を着ていないことをこのとき知ったのではなく、裸である自分自身を恥と感じるようになったのです。そのため彼らは、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものを造りました。人は、天地を造られた偉大な神のようになろうとしました。しかし神になろうとした人が実際に造ったのは、みすぼらしい、いちじくの葉をつづり合わせただけの腰を覆うものだったのです。自らの限界と弱さが、そこであらわになったのです。

 

 そこに神がやってまいります。人は園の木の間に隠れます。それに対して神は人を「どこにいるのか」と探し求められます。人の場所も、人が戒めをやぶったことも全部ご存じで、神はなお人を呼び求められるのです。11節以降、神の問いかけと人の言い訳が記されます。男も女も、結局のところ言い訳は同じ内容です。神が女や蛇を造られた点に落ち度がある。この主張は、自分たちの正しさを守るための主張です。この苦しい立場におかれてなお、男と女は自分たちが善悪を知る神のような存在であることを主張したのです。しかも、真の神の前で。そんな人の姿を神はご覧になり、まずは蛇に神の裁きが下りました。蛇が呪われるものとなりました。そして神は、蛇と女、蛇の子孫と女の子孫との間に敵意を置かれました。神は、人を誘惑するすべての存在と、女の子孫である神の民との間に、敵意を置かれたのです。こうして神の民が簡単に誘惑されないように配慮なされたのです。そしてまたこの対立は、誘惑する側の敗北で終わることが15節の後半ですでに決められています。続く16節以降、神は人に対しても言葉をかけられます。女に対してははらみの苦しみを大きくすること、男に対しては土が呪われることによる労働の苦しみが課せられます。人生が非常に苦しいものになってしまいました。苦しみぬいた人の人生の先に何があるのでしょうか。空しく塵に帰るだけです。堕落の故に、生きる意味の見いだせない、空しい人生となってしまいました。これが2:17で神が警告されていた「必ず死ぬ」と言われたことなのです。なぜ神は、これほどまでに苦しく空しい人生を人に与えられたのでしょうか。自分が神ではないことを人が知り、真の神を求めるよう導くためです。人が真の神を求めるとき、人の空しい人生に意味が与えられます。これがキリストの十字架と復活に示されたことです。キリストが死んで蘇られたように、自分たちの人生の苦しみの先、肉体が塵に帰るしかない死の先に、栄光の復活が約束されています。人生の苦しみや肉体の死は、復活の命を受けるための苦しみとしての意味を持ちます。それでも苦しみや死のゆえに嘆き悲しむのですが、同時に希望もあるのです。ここに神が与えられる永遠の命があります。この命を得させるために、神は人を呼び求め続けられます。「あなたは、どこにいるのか」と。もし神から隠れるならば、苦しんで塵に帰るしかない空しい人生を歩むほかありません。しかし、ひとりの弱い罪人として神の御前に出るときに、真の命、永遠の命はわたしたちのものとなるのです。