2019年4月7日礼拝説教 「神の計画の中の『いま』」

 

聖書箇所:使徒言行録3章17~26節

神の計画の中の「いま」

 

 ペトロの周りに集まった人々は、聖書の御言葉からメシアが来ることを信じていた人たちでした。そんな彼らの手によって、メシアである主イエスが殺されました。この原因をペトロは、無知のためであったと語っています。これは聖書の知識不足の問題ではなく、旧約聖書を主イエスに結び付けて理解しなかった点の指摘です。この点において彼らが無知だったが故に、メシアである主イエスを、十字架につけてしまいました。この結果はあまりにも重大です。しかしこれほど重大な結果を招いた罪に対して、なお憐みの可能性が示されます。これはすでに十字架上で主イエス御自身が語られています(ルカ23:34)。この憐みの根拠は、預言者によって告げられた神の御計画にあります。18節では、メシアの受難が神の御計画なかにあることが語られます。そうとは知らず、イスラエルの人々はメシアである主イエスを殺しました。しかし彼らが知らずに行った行為によって、結果的に神の御計画がそのとおりに実現したのです。さらに受難の主イエスが復活したことによって、罪を赦して罪人を救う神の御計画が明らかに示されました。だからこそ、いま、自分の罪が消し去られるように悔い改めて立ち帰りなさい。これがこの説教の中心メッセージでありましょう。

 20節からは未来の話に移ってまいります。「いま」彼らに立ち帰りが求められているのは、未来において主のもとから慰めの時が訪れ、主がメシアであるイエスを遣わしてくださるためなのです。21節を見ますと、これらが示すのは万物が新しくなるとき、すなわち終末のことを指していることが分かります。「新しくなる」とは回復、リニューアルを指す言葉です。神が「極めて良い」と言われた創造当時の素晴らしい世界への回復が、終末において約束されているのです。故に20節と21節で描かれている終末の時は、恐ろしい裁きの終末ではありません。それは慰めの時の訪れであり、素晴らしい世界への回復のときです。このとき主イエスは、裁き主としてではなく救い主として世に来られるのです。「いま」神に立ち帰ることの先に、このような素晴らしい形での終末が約束されるのです。

 続く22節では、モーセの言葉が引用されています。申命記18章15節の御言葉です。この御言葉を根拠にして、イスラエルの人々は「いつか神がモーセのような預言者、すなわちメシアを自分たちのために立ててくださる」と信じていました。このモーセのような預言者が主イエスであるとペトロが示しているのは明らかです。それゆえに、彼の語りかけることには何でも従えとの戒めは、主イエスの御言葉に聞き従うことへの命令です。この預言者、すなわち主イエスに耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされると警告されています。これは旧約聖書で用いられる律法違反への警告の決まり文句です。つまり主イエスに聞き従わないことは、旧約聖書の律法違反と同じなのです。主イエスは律法を完成されるお方だからです。それゆえに、主イエスの御言葉に聞かない者は、律法違反と同様に民の中から断たれるのです。この警告の前提は、聴衆がすでに神の民だということです。彼らはすでに神の恵みの中にいるのです。しかし主イエスに聞かないならば、その恵みから落ちてしまうのです。これが、この警告の意図です。

 このようにペトロの説教を聞いているイスラエルの人々は、すでに神の恵みの中にありますので、25節で「預言者の子孫」「契約の子」と言われています。その契約とは『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』というものです。アブラハムの子孫であるイスラエルの人々から世界中に祝福が広がっていくことが、神の御計画なのです。だからこそ、彼らが「いま」悔い改めなければ話が始まらないのです。このために神の僕であるメシアが、まず、彼らのもとに遣わされたのです(26節)。神の僕、主の僕という表現は、イザヤ書に登場する表現です。この主の僕は、民のために打ち砕かれることが預言されています(イザヤ書53章)。まさにこの預言にしたがって主イエスは世に来て、十字架におかかりくださいました。それは、すべての選びの民の罪の身代わりとなるためです。しかしすべての選びの民のためと言っても、そこには時間的な順序があります。神はまず、イスラエルの人々に主イエスをお遣わしになりました。彼らが悪から離れて神から祝福を受けることによって、他の選びの民へと祝福が広がっていくのです。そして最後には、万物が新しくなる終末の時へと至るのです。

 

 このような神の御計画の中で、イスラエルの人々から広がった神の祝福がわたしたちのもとにまで来ています。日本のクリスチャン人口が1パーセントと言われている中にあって、いまわたしたちはこうして救われています。ですからわたしたちもまた、イスラエルの人々と同じように、先に神の恵みの中に置かれた者と言うことができるでしょう。そう考えると、26節の言葉はそのままわたしたちにも当てはまるのです。旧約の時代から示されている神の御計画にしたがって、神はまずわたしたちのもとに主イエスキリストを遣わしてくださいました。そして十字架の恵みによって、わたしたち一人一人が悪から離れ、神の祝福にあずかる道を開いてくださいました。この恵みを目の当たりにした「いま」わたしたちがすべきことは、なんでしょうか。神がまずわたしたちに備えてくださった恵みに与ることです。そのために悔い改めて神の御許へと立ち帰ることです。より具体的に言うならば、主イエスキリストの御声に聞き従うことです。そのことをとおして、神の祝福が地上のすべての民へと広がっていきます。その先に、慰めの時である、素晴らしい終末のときが訪れるのです。この壮大な神の御計画のなかに、「いま」わたしたちは立たされています。